2000年4月 移植の決まった日

注意
これは2000年の日記のため、情報が古いです。また、医療情報についても素人患者の闘病記です。ご自身の健康に関しては、医療機関に相談してください。

ここから妻の日記↓

4/1(Sat)

朝、ひろくんと河崎さんから電話がかかる。エープリールフールだからかな。

ひろくんは春休み。恐怖の通信簿ももらい、一安心だ。はじめは私が話すが、途中でなにも言わずにそっとパパに交代すると。

「なんでパパが聞いてるんだよお~」と大笑いのひろくん。

いつものパターンだ。

どうやら、春休みに私の実家に連れてってもらえるらしく、それが言いたくて電話をしてきたらしい。

ひろ「でも、アメリカはダメなんだよね」(コソコソ声)

ウ~ン。まだ諦めてなかったか……..。

でも、最後に、

ひろ「まっいっか。5月の夏休みにまで我慢するよっ」

ひろくん、夏休みは7月なんだよ。

午後、Aさんが、学校での用事を終えてから家に来てくれる。書類の不備を確かめながら、すべての書類に目をとおす。

そのあと、お米などを買うために日本食良品店へ行く。もちろんパパは御留守番なので、超特急で帰る。

先日丸橋先生の奥様に、お弁当を頂き、それがまたおいしかったので、最近、私もお弁当を毎日作っている。

今日は作りすぎたので、Aさんに食べてもらった。

その間、3人で雑談。

竜巻の話し、移植の順番の話しなどを話していたらもう日がくれてしまった。

忙しいAさんは、そのまま大学へ戻るという。

本当に良く働き、よく動く子で、パパと二人でいつも感心している。


4/2(Sun)

今日も、一日曇り空。

パパは、昨日から歯茎から血がでてて、それがなかなか止まらないらしい。

飲み込まないようにして、マメにうがいをさせる。

大量にでているわけではないが、それでも、チョロチョロでているのが胃の中にいってしまうのが恐い。

今の所、脳症は大丈夫だ。

一応、丸橋先生と、歯科医のEさんに相談するためメールをうつ。

なんとか食べさせようとしている矢先に……..。口の中がそんな状態なら、強く言えないなあ。
言ってるか….。

さりげなく栄養剤を飲むようにすすめる。

今日は3回ちゃんと飲んでくれた。

がんばれっっパパ。手術はちかいぞっ!!


4/3(Mon)

ベイラー歯科のEさんから返事を頂く。

口の中からの出血の為、せっかく頂いた歯磨き粉も使えないまま。

Eさん曰く、血小板の数によってはブラシでみがけないとのこと。血小板が少ないと血が止まらないからだ。

ただ、口の中の乾きを防ぎ、菌を殺す作用のあるジェルはつけた方が良いとの事。

丸橋先生に聞いてもやはり磨かない方が良いと言われた。

血小板は先週の検査では3万5千。やはり、正常値よりかなり低い。

とりあえず、マメにうがいをして、飲み込まないようにするしかない。

時々、ブラシでなく、スポンジに棒をつけたような物で歯の汚れを落とす。


4/4(Tue)

移植コーデイネーターのカレンさんに、薬を貰うため、メールを打つ。

先週、「来週の水曜日に薬をとりに来てね」と言われたのだが、時間も指定されず、いつものパターンだと、貰えるはずの日にかなり手こずるかもしれないので、
「明日必ず12時に行きますのでお願いします」と確認のメールを(何度も)打つ事に決めたから。

パパの口の出血は相変わらずチョロチョロでてて、溜まってはうがい…をくり返す。


4/5(Wed)

移植コーデイネーターの所に、薬の空箱を持って出かける。

やはり、カレンさんは居なかった。

「どうして、他の人に頼むとかしないのだろうか。指定の薬を貰うだけなのに」

パパの担当でないコーデイネーターの人に、薬の空箱を見せ、

「I need to this meds soon」と、伝言をお願いし、家で待機してますと告げ、一旦戻る。

数時間後に電話があり、カレンさんから薬をあずかったので、取りに来て下さいとのこと。

確認のメールを出した事の無意味さに、なんだかがっくりしてしまった。

夕方丸橋先生が突然の訪問。

栄養士さんから新しい栄養剤のサンプルを貰ったと、説明がてら寄ってくれたのだ。

パパの顔を見るなり、びっくりしたような感じでこう言った。

「萩原さん、随分痩せましたね」

腕は私より細いし、足も棒のようで顔は痩けている。


4/6(Thu)

アメリカに来てから2回目のひろくんからの手紙が届く。

何故2回だけなのかというと、渡米当初は、ひらがなが書けるのがやっとだったため。

最近ようやく、自分で考えて自分で文章をかけるようになった。

「ぼくは」の”は”を、”わ”と書いたり、「を」を”お”と書いたり、少し間違いはあるが、きちんとした文章になっている。

「ぼくは、100パセントげんきです。」

「これからもげんきにいてね。グッバー」

名草の弁天様に行ったら、立て札に

「熊の親子がでるので気をつけよう」と書いてあり、登るのを辞めたとか。

 

春休みで遊びに行く機会が多いけど、事故には気をつけてね。

ひろくん。


4/7(Fri)

 

午後、丸橋先生の奥様と一緒に栄養科の先生の所へ行く。

先日頂いた栄養剤が飲みやすいようなので、追加の分を貰える事になったのだ。

ICUもある、丸橋先生のオフィスと同じ場所の会議室で、4人で説明を聞く。

今、パパは極度に栄養状態が悪い。

基本的に、何も食べれないのなら、「エンシュア(栄養ドリンク)240ml)」を3本、

「HEPATIC-AID(肝不全用経口栄養剤)300ml」を2回、飲まなければいけないと言うのだが。

HEPATIC-AIDは飲みやすい、エンシュアもまあまあ飲める。問題は量だ。寝る時間が多ので、起きる度に飲む感じになり、しかもなかなか消化されない為、無理して飲むと吐いてしまう。

もし、この量がクリアできないと、鼻からチューブを入れ、直接小腸まで栄養剤を投与することになる。

とにかく移植手術は大手術なので、体力もかなり重要になってくる。それは、もちろんパパにも十分すぎるほど分かっているはずだ。

でも、飲めないものは飲めない。

それでもがんばってみて、とにかく来週の検診(13日)まで様子を見ることにした。

それでダメなら、鼻からチューブを入れることにした。

栄養不良においうちをかけるように、今度は貧血なので輸血が必要と連絡が入る。


4/8(Sat)

アリスンさんからメールが届く。

実は昨日頂いた栄養剤のサンプルは、アリスンさんが栄養士さんに相談してくれたかららしい。

昨日から栄養剤をどれくらい飲めるのかメモしながらチェックをしている。

少しでも飲む時間がずれると、今日は後どれくらい飲まなければいけないというプレッシャーがかかり、夜になるとアセッてしまう。

そして、自然に強い口調で「飲まないと!」と言ってしまう。

パパは「そんなに飲めない」と強く言い返す。


4/9(Sun)

夕方、病院に用事があるという丸橋夫婦が突然の訪問。

パパの様子を、丸橋先生がこまかくチェックしてくれる。

「栄養剤は飲めてますか?」

「腹水はどうですか?」

「吐き気はどうですか?」

「奥さん、飲んだ物のチェックはしてますか?」

パパの口の中の出血の事を言うと、そのアドバイスもしてくれる。

なんだか、ここが病室で入院中の医者と患者の会話みたいだ。

でも、丸橋先生の心使いがとても嬉しい萩原夫婦である。

明日は輸血のため、新しい外来で受け付けをしなければいけないので、何を聞かれるか予想しながら英語の予習。

丸橋先生のアドバイスのお陰で、口の中の出血は少しおさまってきた。


4/10(Mon)

今日はDayhospitalといって一日入院のはずだった。

ところが、受け付けを済ませてその後連れていかれたところは、ロバーツの7階。内科入院病棟だ。

「やっぱりチューブを入れる事になるのかな?」

(チューブを入れる時は、2~3日入院となる)

受け付けなどに時間が掛かってしまった為、

朝9時に病院についたのに、輸血を始めたのは午後1:30。

一回分がだいたい2時間程かかるので、今日は2回分で、だいたい4~5時間で、終わったのは夕方6:30頃。

私が病室を離れている間にクリッピン先生がパパの所へ来て説明をしたらしい。

全然会話にはならなかったらしいが、今日はこのまま家に戻れるとの事。

今週の木曜日に診察の予約をしているので、たぶんそれまで、チューブはやらないのだろう。

または、様子をもう少し見るのかもしれない。

輸血の為のだるさ、熱も出ず、看護婦さんに「マチャヒ~ト」と挨拶されながら病室を後にする。


4/13(Thu)

Dr.クリッピン先生の診察日。

明日、チューブを入れる事に決まる。

帰りがけに、車イスを借りる。


4/14(Fri)

チーブを入れた。

痲酔をかけないので痛がった。

一度帰宅後、処方せんに行く。

薬をもらうのに、また時間がかかる。

夕方チューブの機械を配達してもらう。


4/15(Sat)

夕方看護婦さんが来て、チューブの指導をしてもらう。

夕べ、間違えて12時間だけでいいのに、24時間も栄養剤を入れてしまったので、

今夜は半分の量を入れた。


4/16(Sun)

のこりの栄養剤を配達してもらう。

吐き気はおさまらないが、なんとか吐かないようにしているらしい。

腹水が増えてきた。


4/17(Mon)

夜中、トイレにきっちり1時間ごとに行くのでなかなか寝れない。

朝もチューブをとらなければいけないので、ゆっくり寝ていられず、ここのところ寝不足。


4/18(Tue)

ヘリングさんにお願いして、アパートであまってる携帯用トイレ(椅子)を借りれることができたので助かった。

先日、トイレに行く途中で行き倒れてたから。

便はよくでるが、腹水がかなり溜まってきた。


4/19(Wed)

丸橋先生夫婦に買い物に車で連れてってもらう。

車で移動なので、気分転換の為にパパも一緒。

スーパーには自動で動く車イスがあるのでそれに乗る。

今、部屋は病室みたいで、なんかイヤだ。

ストレスも溜まる。


4/20(Thu)

パパ自身、脳症が入ってる感じがするというのでブレンダさんにメールを打つ。

すぐ、連絡が入り、ERへ行くように指示される。

ERの診察室で5~6時間待たされたあと、14階へ入院が決まり、移動する。


4/21(Fri)

口の中の出血がひどい。

うがいをしても、血の塊が次から次へでてきて、歯がメタル色に光ってる。

貧血の為、とりあえず輸血。

血小板を投与してほしいのに。


4/23(Sun)

高い熱が出る。

血液培養検査を行う。

腹水もかなりたまっていたので、4.5リットル抜く。

少しだけ食欲が戻り、ゼリーを少し食べる。


4/25(Tue)

丸橋先生通訳のもと、腎臓の先生から話がある。

「いずれは、透析」

クレアチン値が上昇しているので、このままいけば、2~3日中には透析を開始しなければならないという。

腹水はすぐもとにもどってしまい、食欲もまったくなくなる。


4/26(Wed)

朝、急に透析を始める事が決まる。

一回目の透析開始。

透析を始めてすぐに、口の中から鮮血がでてきてしまう。

担当の看護婦さんは、初めだけパパに付き添っていたが、すぐとなりの患者さんのところに行ってしまい、タオルで拭った血を見せるたびに、嫌な顔をされ、なんにも処置をしてくれず、ほっとかれた。

丸橋先生をつかまえようと、外に電話をかけに行き、戻ったら、かぎをかけられ中に入れなくなってしまった。

ようやく入れたと思ったら、パパの顔はタオルで圧迫してあり、その説明も看護婦からまったくない。

透析の後はかなり体がだるくなるらしく、辛そうだ。


4/27(Thu)

透析のだるさが残り、朝から弱気なパパ。

足利に電話をかける、精神的に辛いことを告げる。

私も、ギリギリだ。

このまま移植の日まで、入院で、だるさを伴う透析が週に3回ある。

あと、何ヶ月待てばいいのだろうか…….。

そんな時。

ファッソーラ先生が、病室に入ってきた。

この先生は、渡米時に面談した外科医の先生で、通訳違いで(Ifが抜けてた)、その日に移植か??と私達が勘違いした時の先生。

それ以来、いままで会っていなかったので、

「懐かしいなあ~」と思っていた。

すると、

先生「You ,get ,liver」

と、ゆっくり言った。

私「え?」

前の勘違い事件を思い出し、疑いを(かなり)持ちながら聞き返す。

私「Get?liver?」

先生「Yes,liver,transplantation,today」

私「Today!!???」

先生「Yes,tonight」

病室にあるマジックボードに図を書いて、

肝臓と腎臓を書いて、指差し、

「Spilit liver and kidney」

と、言う。

パパは、椅子に座っていたのだが、開いた口がふさがってない。

二人で涙が込み上げる。

ナースさんがにっこり微笑んでくれる。。

 

…………….ほんとに??移植???

ついさっきまで、リストの順番は10番をきったかきらないかと思っていたのに。

ブレンダさんからポケベルの事で連絡がないなと思っていたのに。

さっきまで、電話で小百合ちゃんとくら~い話しをしていて、とにかくパパがひろくんにすぐ会いたがっているという話しをしていたのに…..

丸橋先生からの連絡で確認をとり、どうやら、本当にドナーが見つかったらしく、今、パパはステータス2Aだということを聞いて、すぐ小百合ちゃんの所に連絡を入れる。

小百合ちゃんのこの時の驚き方は物凄かった。

足が地についてないなと思った。

それはそうだろう。

私以上に、お兄さんの事で悩み、色んなことで辛い思いをし、涙を流し、本当に待ちにまっていたからだ。

小百合ちゃんもやはり、信じられなかったらしく、しばらく、「ほんとに?ほんとに?」とくり返していた。

ところで、当の本人はまだ椅子にすわり、ボーーッとしている。

次から次へと病室に色んな先生がチェックしに来る。

ナースさんもいつもと雰囲気がちょっと違う。

クリッピン先生は、パパのおでこをなでながら、にっこり微笑んでいる。

「明日、目が覚めたら、、、、」

そして、クリントマーム先生も来てくれたのには驚いた。

(ベラー移植チームのトップの先生で、野村さんの本で顔は知っていた)

なんと、クリントマーム先生が手術を受け持ってくれるという。

なんという幸運!!

8枚程の書類にサインをする。

ヘリングさんが立ち会ってくれたので、すべて確認しながら、力強い字で「萩原正人」とサインする。

心電図、10本程の採血、レントゲン、浣腸をした後体の消毒。

一息ついた頃に、広空に連絡した。

ひろくんがどんなことをパパに言ったか聞いて無いが、とにかく、うれしさと驚きのひろくん。

「肝臓、見つかったん!!??手術できるん?」

あれよあれよというまに、手術室に行く時間になってしまった。

手術室まで移動。

丸橋先生の奥様とAさんに見送られながら、パパ一人だけで手術室に入っていった。

8時30分。

パパは、今頃、手術室で痲酔をかけられてるのだろうか。

丸橋先生の奥様がお弁当を持ってきてくれて、Aさんと3人で食べようとしたら、丸橋先生が入ってきた。

先生も、手術に入るのだ。

実は先生、ここの所忙しく、あまり寝て無いらしい。

しかもパパの手術とあって、緊張していると奥様が言う。

でも、なんだか、丸橋先生が手術に入ってくれるのはこころなしかうれしいし、もちろんパパも同じ気持だ。

 

奥様と、Aさんがしばらく病室で話をしていってくれた。

一人で待つより、やはり気分的に楽だ。

11時頃帰ったので、そのあとは、ソファーで外を眺めていた。

3時頃。丁度、うとうとし始めた頃に、何故かナースコールのスピーカーから

「ハ~ギワラ~ハギワラ~」

と呪文の様に聞こえてきた。

ボーッとしながら、何故かナースステーションを通りすぎ、エレベーターの前まで行ってしまう。

そこで、ナースさん、慌てて

「ヘイッヘイッ!ハギワラ~!!」

と追い掛けてきた。

丸橋先生からの電話だった。

「無事に肝臓移植手術が終わりました。胆汁がでてるのも確認できました。

これから腎臓のオペに入ります。2~3時間程ですので、また連絡します」

丸橋先生の声の後ろから、クラシックの音楽が聞こえてくる。

病室に戻り、小百合ちゃんの所に連絡。

そのあとまた少し横になり、ウトウトしてしまった時に、コンコンとドアのノックの音。

丸橋先生とクリントマーム先生が直々に手術の報告をしにきてくれたのだ。

「手術は成功。肝臓も腎臓も無事機能しています。

拒絶反応などの症状は、これから少しづつ、あらわれるかもしれません。

血管がつまったりすることもしばしばあるかもしれません」

でも、とにかく、今、手術が無事成功したことだけを考え、先の事は、その時その時で考える事にした。

本人にあえるのは1時間後で、迎えに来てくれるというので、病室でしばし待つ。

ところが、どうやら聞き間違いだったようで、

「1時間経ったら、ICUに来て良いですよ」だったらしい…..。

何処をどう間違えば….の、大失敗。

結局、待ちぼうけを6時間も続け、丸橋先生と奥様が、びっくりしながら迎えに来てくれた。

そして、ようやく、パパに御対面。

パパは、チューブに囲まれていたが、前回の昏睡のときと違って見える。

お腹には大きな傷が2つ。

そうだ。

移植手術だったんだ。

問い掛けると、うなづいたりして、意識はしっかりしている。

本当に、お疲れさま。

よくがんばったね。

あさってには、小百合ちゃんも赤坂さんも、そして、ひろくんが来るんだよ、よかったね。

ここまで妻の日記


【本人が書きます】

4月20日~から数日間

入院のきっかけは、肝性脳症だった。

脳症がひどくなってる気がするのだ。

移植コーディネーターのブレンダさんへ妻が電話。血液検査をして欲しいと。

体調がすこぶる悪化しているし、とりあえず血液検査をして、その結果をもとに、Drクリッピンに検診してもらう。

血液検査のあと、結果がでるまで、うとうとしていると。

遠くでオレを呼ぶ声がする。

「萩原さん、萩原さん、起きましたか、萩原さん」

声の方を振り返り、目をあける。

目の前に丸橋先生の顔があった。

検査の結果、アンモニアの数値は安定しているという。

脳症の悪化は気のせいなのだ。

そして、Drクリッピンに診察してもらう。

結果は「今晩一晩泊まって、様子をみましょう」とのことだった。

そして入院。

 

ここで、移植前の体調について少し説明する。

ほとんど寝たきり状態で、トイレはベッドの脇に簡易トイレ。

意識も、はっきりしてるのか、ボンヤリしてるのか判らない。

ほとんど歩けない。力が入らず声がでない。筆圧も無いに等しい。

食欲はまったく!ない!。しかし、腹水がパンパンで苦しい。

でも食べなきゃ死んでしまうので、鼻から栄養剤を流し込む。

鼻にチューブを入れてるが、それは喉から胃、そして腸にたっしている。

 

そして翌朝、Drクリッピンの回診である。

オレの「今日退院?」の質問に、とんでもないと驚きの表情を見せる。

腎臓の先生に見てもらって、それからだ、と言う。

そうだ忘れてた、オレは腎臓も移植が必要なほど悪いのだった。


4月25日

入院してから5日過ぎた。いつ退院できるのだろう?

今朝は腎臓先生、丸橋先生と一緒に回診にきた。

丸橋先生が説明してくれる。

「クレアチニン(腎機能の検査)の数字が非常に高く、下がる傾向が見られません。このままでは人工透析に頼るしかありません」

透析!、、、心の中で叫んでいた。

「今すぐにじゃありません。その可能性がある。ということです」


4月26日〜27日

今朝は朝はやくから丸橋先生が病室に訪れた。

そして、何気ない声で、

「萩原さん、透析決定です」

「え~っ、、」である。

そして、先生。

「じゃあ今から担当のものが準備しますので、しばらくお待ち下さい」

しかも今すぐに行うらしい。

 

透析の部屋へは、車椅子で運ばれた。

腎臓の先生が笑顔で待っている。

まずは、透析のための『バイパス』をつくる。

そして、透析開始。

仰向けになって3時間このままだ。

実はこのところ、鼻なのか虫歯なのか歯茎なのか、出血がある。

唇も切れて出血している。

透析をはじめたら、この出血が酷くなった。

ティシュでふいたくらいじゃ治まらない。

ジャンジャン溢れ出てくる。

タオルをもらうが、あっというまに鮮血に染まる。

最後は、たんを吸い込む機械を用意してくれた。

丁度、パイプの吸い口くらいの太さの管、それがバキュームされてて、口の中に入れれば、面白いように血が吸い出されていく。

とにかく最悪のコンディションでの、始めての人工透析だった。

病室にもどり、血小板(血液凝固に必要な成分)の点滴。

おかげで出血も止まりつつあるし、透析もして気分爽快!!

といくはずだった。

とんでもない話しだ。

透析とは、ダメージをくうものなのだ。

今まで味わったことのない究極の疲労感、脱力感、倦怠感が襲う。

しかも、これを週3日、移植の日までやるのである。

ウエィティングの順番は、9~11番目という話しだし。

まあ、早くて一月、その先は、、、誰もわからない。

 

アメリカにきてから9ヶ月が過ぎた。

渡米当初、肝臓の内科、外科の先生から移植の説明があった。

口々に言っていたのは、「移植とは、待つことです」

患者のサポートグループの会にも参加した。

移植に関して一番辛かったことは?

「ウェイティグ」

移植経験者の誰もが答えていた。

その頃オレは、そんなものかと思っていた。

とんでもない話しだ。

日々、体調がおかしくなってゆく。

腹水から始まって、今や小便もでないし、口の出血はとまらない。

いつくるかわからない移植に向けて、延命のために、

鼻、腕、胸とチューブがこんがらがってる。

もう我慢も限界だった。

少しウトウトした。目が覚めた途端に疲れを感じる。

身動きがとれない。

小水はベット上で、しびん。

便は寝たままできる『ベットパン』と呼ばれるものを使う。

(お尻の下に、厚さ20センチくらいの簡易便座みたいなものを敷くのだ)

実は、透析開始からの記憶が乏しい。

26日と27日の境が、あやふやになっている。

残された記憶だけを綴ることにする。

多分この記憶は透析開始の昨日(26日)の、夕方から夜のことだと思う。

 

足利の実家に電話する。

透析について、経験者から知識を得るためだ。

父が、人工透析を受ける身なのだ。

「もしもし」とオレ。電話にでたのは母だった。

「大丈夫だよ、頑張ってね」との励ましの声を聞く。

「頑張ってね、まさひとなら大丈夫だから、ヒロくんが待ってるよ」

普通なら、

「大丈夫!とにかくオレは平気だから!元気!」と、強がりもいえる。

しかし、今日は違った。

母の声を聞いた途端、涙が溢れだしてきた。

それをこらえるのが精一杯だった。

妻に受話器を渡し、父に代わってもらった。

普段、無口な父が、「大丈夫か?」と元気そうに電話にでる。

もう、ボロボロ泣いているオレ。

それでも、泣いてるなんて気取らせまいと、頑張る。

 

もう一人、東京に住む太田さんに電話した。

この人は、日本に住んでいる限り実現性のない、移植という治療方、しかも、海外で脳死移植をする。

そんな夢のような話しを、無理矢理スタートさせてくれた人だ。

声を聞いただけで、またやボロ泣き。

太田さんの、

「ハギ!気だけは、しっかりもてよ!」の声に、

いつもなら「大丈夫!」と空元気を出して、(意地でも死なねぇぞ!)と心の中で叫んでいた。

今日は違った、、、、、。

「、、もう駄目かも知れない、、、」「もう辛い、、」

自然と弱音を吐いてる自分がいた。

でも、これが本音なんだ。心がすっきりしていく。

もう駄目だ死ぬんだろうな、と脳裏で確信してたんだ。

それでも太田さんは、オレを励まし続けてくれた。

「気だけはしっかり持てよ」

「お前なら、やれる!」

オレも気持の中に(意地でも死なねぇぞ!)と、無理矢理押し込んだ。

歯を食いしばって、『オレは死なない!』と。

 

妻に頼んで、ベットの横に椅子を置いてもらう。

体を起こして、そこに座る。すこし体を縦位置にするのだ。

ベットに横になったまま24時間は苦痛だ。

椅子に座ってまた少しウトウトする。

どれくらいの時間がたったろう。

Dr. ファソーラが現れた。

彼は移植外科医なので、オレを検診する必要はないはずだ。

(なんでだろう?)と不思議な顔してオレはDr. ファソーラを見上げた。

彼は話し始めた、もちろん英語だ。

オレが理解できた単語は、

Liver (肝臓)Kidney(腎臓)Get(手にいれた) Transplant(移植)

オレは口をポカンと開けたまま、濁った頭で考えた、自分の身に今何が起きてるかを。

(えーっ移植!移植ってオレに?ほんとに移植なの、ほんとに?

もし、それが嘘じゃないなら、それは、、いつ?)

「トゥディ?」とオレが、Dr. ファソーラに質問した。すると、

「もちろん。夕方から始める予定です」

「See You Soon(では後程会いましょう)」と、

それだけ言い残して去っていった。

 

まだボーッとしていて確信がもてないが、

どうやらオレに移植の順番がまわってきたのだ。

本音を言えば、もうあきらめていたんだ。

(もう駄目だ、移植手術なんて、いつまでたっても来ない、、、)

それが突然、移植しますの決定だ。

妻の方を振り向いた、彼女と目があった、肩の力がストンと落ちる。

妻も泣いていた。「よかったね、よかったね」。

二人で手に手を取合い握手した。

 

移植は今日の午後6時からスタート予定。

中止になることもあるけど、99.9%大丈夫でしょうとの事。

もちろん、心の準備なんてしていないので心配や不安もあるが、それが心地よい緊張感になってる。

しかし、冷静に考えると『あと6時間で移植』なのだ。

ここにいるオレは、6時間後に手術台の上にいる。

肝臓移植だって、成功もあれば失敗もある。

6時間後に、目を閉じてから。

そこからが、ほんとの闘病の始まりだ。

それより、今頃太田さんが心配している。

オレは慌てて東京に電話した。

「さっきの電話、あれはなかったことにしてください。今日これから移植します!」