1999年9月 アメリカ初入院

注意
これは1999年の日記のため、情報が古いです。また、医療情報についても素人患者の闘病記です。ご自身の健康に関しては、医療機関に相談してください。

9月1日(水)

なんか、今までの疲れが、どっとでそうな気配がする。

熱っぽい。

午後から昼寝、夕方もベッドに横になる。


9月2日(木)

朝、朦朧とする意識の中で目が覚めた。立ち上がるとクラクラする。かなり熱がありそうだ。

体温計で計って見る、100.6度。ピンとこない。アメリカは摂氏ではなくて華氏なのだ。日本の摂氏に直すのには、計算が必要だ。

F=華氏 C=摂氏

C=(F-32)×5/9

頭をクラクラさせながら計算する。

38度ある。

まだまだ、熱は上がりそうな気配だ。オレの場合、高熱は珍しい事じゃない。

日本なら、座薬で一発なんだが、、、、、、。

とりあえずコーディネーターにメールを出す。単純な英文だ。

I have a fever,101.6,and diarrhea,and slight fever.

実際に出した英文だ、通じるか通じないか知らない。とても、電話する気にはなれない。

寒気がするので、ベッドに戻る。妻を起こして、相談する。とりあえず、メールチェックを頼んでおく。

目が覚めたら、昼過ぎだった。熱をはかったら、103度以上ある。40度近い熱だ。

妻と二人、これはもう、コーディネータに電話して、Dr Crippnの指示をもらうしかないだろうとの結論になった。

オレが電話した。彼女は、オレの説明にOKと相づちを打つ。どうやら、英語が通じているらしい。彼女は、とりあえず連絡を取るから、また後でと電話をきった。

数十分後、丸橋先生から電話があった。

「どうしました、大丈夫ですか?」と言う。

丸橋先生によれば、コーディネーターのブレンダさんから連絡があり。

「Mr ハギワラが何か言ってるけど、よくわからないので、聞いてもらえる」という事らしい。

結局、英語は通じてなかったのだ。じゃあ、さっきのOKの相づちはなんだったんだろう。

丸橋先生に、コーディネーターのブレンダさんと、Dr Crippinと連絡を取合ってもらう。

その結果、とりあえず解熱剤を飲んで下さいとの事だった。

市販で売っているもので、銘柄を教えてもらい、妻が、ベイラー内の薬局に走る。

それを飲んで、寝る。ドッと汗をかく。いい感じだ。4時間おきに薬を飲む。妻が、氷り枕(日本から持ってきた)を変えてくれる。

夜中に熱をはかったら、平熱まで下がっていた。とりあえず、一安心だ。


9月3日(金)

熱は下がったが、まだ本調子ではない。

ごろごろと横になりつつ、パソコンいじったりして一日過ごす。


9月4日(土)

もう、大丈夫だろう。体調も気分もいつもの状態になる。軽い運動を兼ねて、外へ散歩にでる。

とにかく、暑いのには困る。


9月5日(日)

部屋でじっとしていると、病人気分が増してくる。

それもいけないだろうという意見になり、妻と二人でダウンタウンへお散歩。ただ、病み上がりでもあるし、無理はよくない。バスに乗って行くことにする。前回の失敗は、郊外行きのバスだったからだ。今度は、平気だろう。

上りのバスは、ほとんどダウンタウン行きだ。バスの降り方も、終点までにはわかるだろうし、わからなくても、いざとなれば運転手の側に行って「ストップ ヒア」だ。

妻と、アパートを出る。

ダラスにきてから、始めての曇り空だ。暑くもなく、寒くもなく、丁度いい気温。バス亭でも、快適に気分良く待つことができた。

できたはいいが、全然バスが来ない。日曜日だと、運行しないラインがあるのかも知れない。

アパートから、ダウンタウンの中心部まで、健康な足で、15分くらいだろうか?

セブンイレブンより、少し遠いくらいだ。暑くもないし、体の調子も良い。慌てることはない、無理せず、のんびり行けばいいのだ。歩いてダウンタウンまで行くことにする。

200メートルごとに、休憩をとりながらダウンタウンへ向かう。日曜日のダウンタウンは、ガランとしていた。人陰が、ほとんどない。見掛けるとしたら、浮浪者ばかり。

(やばいなー、、、、、、)

人気のない街はヤバイと聞いている。黒人の一団がたむろしていた。目を合わせないように慎重に、通りすぎる。

大丈夫だった。

しかし、通りすぎたらすぎたで、今度は後ろの気配が気になって恐い。意味もなく、道路を渡りながら様子をみる。

彼等の行動に変わりはない。

ホッとするのもつかのま、浮浪者が寄ってくる。なにか、言っているが、まるでわからない。逃げるようにして、その場をさる。

少し歩くと、人の気配が見え始めた。ここが今日の目的地、ケネディ記念館などのある、ウエストエンドだ。

ダラスといえば、ケネディの暗殺されたところ。映画や、ドキュメントで見た事ある風景が広がる。

暗殺された場所なのだろうか、広場にプレートが刻まれている。妻と二人、ベンチでのんびり過ごす。

結構、観光客で賑わっている。

日本人だろうか?日系人だろうか?こちらに歩いてくる。

「ハウ ア ユー」

オレは声をかえる。

驚いて、顔をこちらに向ける日本人。

「アーユージャパニーズ?」

首を立てに振る日本人。

「こんにちは」

オレは日本語で挨拶する。彼は、笑顔のまま通りすぎてしまった。

後ろを歩いていた、奥さんが、

「どうも」

と頭を下げて目の前を過ぎていく。う~~~~ん。久しぶりに見た、ちゃきちゃきの日本人だ。

これが日系人や、アメリカ在住ならリアクションが違う。

「ハウ ア ユー」と聞けば

「ファイン!」と答える。(それ以外の返事も色々ある)

阿吽の呼吸がかえってくる。

とにかく、アメリカ人は、目があえば、

「ハウ ア ユー」と挨拶してくる。

ちなみに、渡米して3週目のオレ達の答えは、

「えっ、あっ、アイム ファイン」とぎこちない。しかも、調子悪くても、アイム ファインと答えてしまう。

今日の調子は、確かに「アイム ファイン」だ。

ダラスでは、曇り空が絶好の散歩日和だ。ただ、曇り空ということは、雨にふられる可能性もあるわけで、案の定、ふってきた。

最悪である。

とにかく雨宿りと、ウエストエンドの商店街にある、ハリウッドなんとか、というショッピングビルに入る。

ゲームセンターや、アンティークショップ、ミヤゲ物屋さんなどがあり、結構、暇つぶしになった。

そろそろ雨もやんだかなと外にでる。

まだ小雨が振っている。とにかく、バス亭かホテルに行こうと歩きだす。ホテルなら、タクシーが捕まるからだ。

歩きだしたら、すぐに流しのタクシーが捕まった。運がいい。ダラスでは、流しのタクシーはまずないとガイドブックに書いてあった。

アパートの住所を書いた紙を渡す。5分ほどで、アパートの前についた。チップとあわせて、5ドル。5~600円といったところか。

そういえば、ダラスにきてから始めての雨だった。


9月6日(月)

今日は、国民の休日なのかも知れない、、、、、、。

買い出しバスの日だが、休みになっている。日本の労働感謝の日みたいなものらしい。

英語がしゃべれる、しゃべれないのレベルではない。アメリカ生活の基本知識もない。

午後、丸橋先生に車でスーパーに連れていってもらう。奥様にお願いしたら、丁度先生も午後ならあいてるとのことだった。

余談だが、奥様は結婚するまで看護婦だったそうだ。医師と看護婦に同行してもらっての買い物、どこで倒れても不足はない。

買い物の前に、パソコンショップを覗いていく。アメリカは、Macintoshの産まれたところだ。今度でる、実物のibookが展示されてるかも知れない。

アメリカで大きなチェーン店のパソコンショップに連れていってもらう。

店内に入ると、さっそくMacintoshの文字を探す。店が広くて中々見つからない。

「あった!」

店の奥の片隅に、ひっそりと。

「萩原さん、僕も日本では、マック使ってたんですよ」

丸橋先生が、しんみりした口調で話しだす。

「今、アメリカでマック使ってる人は、変わりもんですよ。みんなウインドウズですよ」

話しによると、まだ日本のほうがマックのシェアが高いらしい。確かにソフトウェアになんて、マックのものは、ほとんどない。

一時、アップル冬の時代があった。

imacで、なんとか春のきざしが見えてきたのではないのか?コンピュータの本場アメリカでは、ますますビルゲイツ真っ盛りだった。

おとなしく、スーパーで買い物して帰る。


9月7日(火)

朝の5時に母親(栃木のオレの)に電話で起こされる。普段は、のんびりしている母が、早口でペラペラまくしたてる。

オレは、寝惚けたままで、あいづちを打つ。

「じゃあ、そういうことで」と電話がきれた。

要件だけを、まとめて話し、その答えを聞くとすばやく切る。母にしては、めずらしく効率的な電話の利用法だ。

、、、、なるほど、国際電話だから、莫大な電話料金がかかると思ってるのかも知れない。

おかげで、目が覚めてしまった。

今日も、体調はいいみたいだ。ただ、頭がボーットしている感じがする。

静脈瘤も処置したばかりで、心配はない。ガンの検査も、一月前で発見されていない。

腹水が少したまりだしてきた気配がする。気のせいか足がむくんでいる。ただ、足の筋肉は日本にいた時に比べれば、かなりついた。もちろん、健康な人の何分の一にすぎないだろうけど。

ちょっと、やばいなと感じるのは、脳症だ。この頭がボーッとは、朝早く起こされたからだけではない。

なんていうのか、脳みそと脳みその隙間に、溶けたロウを流し込まれたような。

はっきりしないのだ。

昨日、丸橋先生に聞いた話だ。移植手術される人の容態だが、ICUでタイムリミットぎりぎりの人もいれば、体力が十分余って、手術にのぞめる人もいる。

「どのくらい、待ちますかね」の質問には、

「半年くらいだと思うんですがね」という答えだった。


9月8日(水)

静かな一日だった。

夜、駐車場の屋上にでて夜空を眺める。東京と一緒で、星はみえない。

ただ、ライトアップされたダウンタウンが美しい。振り返れば、ベイラーメデイカルセンターの白い巨塔だ。

その中で一際目立つのが、ブルーのネオンに縁取られた移植外科のあるロバーツビル。その、ロバーツの隣に背一つ低いビルがあり、屋上にはヘリポートが。

ブルーのネオンは、夜間飛行のヘリのための目印にもなるのだろう。

8月中は、よくヘリコプターの音を聞いた。

駐車場の屋上にでてみると、ヘリがベイラーに舞い降りる。救急患者が運び込まれたのか、移植のための臓器が運び込まれたのか?

夏休み中は、人の移動も多く、交通事故も多いらしい。それだけ、ドナーの数も多いのだ。

移植。

レシピエントであるオレは、死と隣あわせになりながらビクビク暮らしている。

その頃ドナーになるかも知れぬ人は、死なんて意識もせず、楽しかった休暇を名残り惜しみながらハイウェイを飛ばしている。

車の中は、家族の笑い声で満たされているだろう。

まるで、正反対だ。助かる者と、助ける者。

ドナーになるということは、『必ず死は訪れる』。

そんな、忘れていたい現実を、喉元に突き付けること。

もし健康だったら、、、、、、。オレはドナー登録する勇気があっただろうか。


9月9日(木)

妻がパソコンの前に座り、辞書を片手に格闘していた。それは、夕べの話しである。

英語の何が難しいといえば、ヒアリングだ。

そこでオレ達夫婦は、ベイラーの人達とのやりとりに、メールを利用することにした。

ベイラーでお世話になっている人の中に、野村さんの親友でもある、アリスンさんという女性がいる。

とても気にしてもらっていて、淋しくはないか?ホームシックではないか?と心配のメールを、よくくれる。

先日もアリスンさんからメールがきたので、妻は、その返事を書いているのだ。

ちなみに妻は、こちらにくるまで、英語なんてまるで興味も関係もない生活をしていた。

今、インターネット上には便利なホームページが山ほどある。その中に、無料で翻訳サービスしてくれるサイトがあるのだ。これが、中々使える。

妻は、夕べ遅くまでかかって、英文でメールを書いて、アリスンさんに送ったという。そして、ちゃんと理解できる英文かなと心配している。

それなら、翻訳サービスで確認してみようということになる。

以下は、その結果であるが、、、、、、。

それは、理解でるかなぁー?などと暢気な心配するレベルではなかった。

────────

hell! (地獄!)

How are you? (ごきげんいかがですか?)

We are very fine.Thank you for your e-male. (我々は真のfine.Thankである、あなた、あなたのe-男性のために。)

My sun’s name is hirotaka hagiwara. (私の太陽の名前はhirotaka hagiwaraである)

a seven year old boy. (7人の歳少年)

中略

good bye. (さようなら)

________________________________________

いきなり、hell!。地獄!である。

これじゃあ、いたずらメールと思われても仕方ない。検索結果を見て、妻と二人で、腹を抱えて大笑いした。

彼女の名誉のためにも一言付け加えておく。妻は、高校を卒業して以来、英語に関心も興味もない生活を送っていたのだ。

今回の渡米も、彼女にとっては、かなりのストレスになっているはずだ。

それなのに、こちらにきてからは、グチ一つこぼさず、コツコツ英語の勉強をして、自ら、英文のメールを書いたりしている。

今日は、失敗をして二人で大笑いしたことが、きっと明日にはいかされ、いつか必ず実をつける。

二人で夕方、ベイラーのアリスンさんのオフィスまで訪ねた。彼女は、笑顔で向かえてくれた。そして、メールの話しで盛り上がる。

妻のメールのおかげで、アリスンさんとの距離が少し近くなった。


9月10日(土)

ダラスに来てから一月がたった。あっという間に過ぎた気もするが、改めて考えると、まだ一月だ。なんだか、ため息もでてくる。

体調は、気分的には良い。ただ、足のむくみが気になってきた。腹水は、まだそうでもないと思うのだが、、、、。

今夜のディナーは、丸橋先生の自宅に招かれている。夕方、先生が向かえに来てくれた。

前にも書いたと思うが、奥様は日本で看護婦をしていた。そして、先生は外科医だ。これなら、何が起きても安心だ。

先生の自宅にも、ナイフとフォークくらいあるだろう。いざとなれば、緊急オペくらいしてくれる。

先生夫妻の住居は、郊外にあるマンションの6階だ。今日は、そのベランダでバーベキュー。

もしここが東京都内で、ベランダでバーベキューなどすれば、

「今度、隣に越してきた夫婦、ちょっと、、」などと声をひそめられ、頭を指差し、「おかしいみたいよ」

と近所で評判の変わりもの扱いだろう。

しかしアメリカは違う。

庭があればもちろんの事、どんな狭いベランダでも、必ず、バーベキューセットが置いてある。

オレ達夫婦の住んでいる、患者アパートのベランダ(2畳くらい)でも、かなりの人がバーベキューを楽しんでいる。

奥様の手料理と、バーベキュー。愉快に宴は始まった。

こっちにきてから、うんざりしていたステーキがおいしかった。何がうまいかといえば、奥様特製の和風タレがうまいのだ。

これは教えてもらって帰ろうと、秘伝のタレを御教授いただく。

「あっ、このタレ?これは、ソバツユにネギきざんで入れただけよ」

そして、隠し味にゴマだという。タレの中にプカプカ浮いていて、隠れてはいなかったが。

しかし、これぞまさしく『本格的和風ステーキのタレ』。

食事もおいしいと会話もはずむ。奥様が真剣な顔で、こんなことをいう。

「でも、よくみかけるよね」

「えっ、何をですか」とオレ。

「アルマジロが死んでるの!」

オレと妻は、「えーっ」である。そんな光景みたことない。

郊外だと、アルマジロが車にひかれてペッチャンコになってるのを、よく見るのだという。日本では、車にひかれたカエルをよく見かけたが。

食事もおいしく、会話も楽しい、一時だった。丸橋夫妻ありがとう!!


9月11日(土)

精神的には患者気分なし、いたって好調。と思っていたが、やはり、病気は進行しているのだろう。

足のむくみは、消えず、胃腸の調子も悪い。気も滅入りがちになる。気分にも、好不調の波があるのだろう。

患者のミーテイングに参加した際に、術後の人が言っていた。

「肝臓移植の何が辛いかといえば、待ってる時間が辛かった」

みんな、異口同音にそう答えていた。

調子が良いときにはこう思う。

「みんな、あんな風にいってるけど、オレは、見知らぬ土地で冒険的かつ、新鮮な気分を味わっている。

待ち時間をただ移植を待つだけなんて、意義もなく暮らしていれば退屈なのあたりまえだ」

しかし、気分が落ち込んでいると、この威勢がガラリと変わる。

「お前らいいよ!言葉通じるし、具合が悪くなれば気軽に電話で担当医に相談できるだろう!家族や友人達も遊びにこれる距離だし、

それに、車もってるから、気軽に買い物や気分転換もできるだろう!」

もう全てがマイナス思考に走ってしまう。こうなると、何もしたくなくなる。もしかしたら、ホームシックなのかも知れない、、、。


9月12日(日)

離れて暮らす、7才の息子もホームシックらしい。

夕方、足利から電話がある。日本では、月曜の朝だ。妻が電話を取ると、心配した声で、

「なに、泣いてるの、パパもママも元気なんだから、ヒロクンも元気ださなきゃ」

と励ましている。

学校に行きたくないらしい。

聞いた話では、学校の友だちも先生も仲良くしてくれている。学校に行きたくないのではない。やはり、淋しいのだろう。

昼間、元気に遊んでるときは、いい。

夜になり、一人で布団に入ると不安になるのだ。そして朝が来て、目が覚める。隣の布団には誰もいない。

足利にきたばかりの頃は、寝床に3人で仲良く撮った写真を忍ばせて、寝ていたという。

今、ここを乗り越えれば、、、、。

18才で東京にでてきたばかりの事を思いだした。なにかあると、すぐに、田舎のことを思いだして、帰りたいなんて思ってた。実際、最終電車で何度帰ったことか。

アメリカは少し遠すぎる。


9月13日(月)

ホームシックだよ、と日記に書いたとたん。日本からの小包が!!

絵本作家の長谷川集平さんから、日本食品の詰め合わせセットが送られてきた。

段ボールを開けると、そこには、日本がぎっしり。

(オレって、こういうところ、ラッキーというか運とかタイミングがいいんだ)

日本茶、温泉の素、味噌汁パック、インスタントラーメン(味噌味!)、サキイカ、水ようかん、ひじき、高野とうふ、筆ペン、ふえるワカメちゃん、他、一杯!!

長谷川さんの絵本は、一冊もっていた。ヒロタカの誕生日に、妹の旦那様の赤坂さんがプレゼントしてくれたのだ。

一度、拝見したいと思っていた、創作えほん新人賞、受賞作でもある『はせがわくんきらいや』の絵葉書セットも送って頂いた。

ぜひ、感受性のある世代に、読んでもらいたい内容だ。

『はせがわくんきらいや』は、1976年に出版され、今、何度目かの絶版中だ。復刻を強く望む声も大きい。

僕も、再出版が実現することを願います。


9月14日(火)

熱がでた。100度。ピンとこないんだよ、華氏だと。計算機をひっぱりだして、摂氏に直す。

気分が弱っているから、熱がでたのか、もともと、微熱があったから、気も弱くなっていたのか?

腹と腸が張り、食欲がまるでない。とにかく果物をかじって、薬を飲む。


9月15日(水)

解熱剤が全然効かない。明日は、定期検診の日だ。

とりあえず、今日も一日横になり、様子をみる。最悪の気分である。


9月16日(木)

Dr.Crippinによる診察の日。これで、この苦しさから抜けだせる。

と思ったら。熱が下がっていた。

「どうせなら、今日まで熱があれよ!こら病気!」である。

そうすれば、原因究明のために入院の予定だったのに。

たぶん、なにかの菌が悪さをしているのだろう。抗生物質で一発のような気もするが、どんな菌で、どの抗生物質を投与するかを決めるために、入院しなくてはならない。

とりあえず、熱も下がったし、また今度になってしまった。

前回の血液検査の結果だが、アルブミンもあいかわらずの数値。総ビリルビンも思ったほど、高くない。腹水も少したまってるくらいだという。

ちなみに、こんなやりとりが、Drとできるようになるなんて、英会話も多少はマスターしたじゃん。

と思われてるかも知れない。

オレと、Dr.Crippinの間には、丸橋先生がいたのであった。

夕べは、ドナー当番の日で徹夜あけ。別のチームは移植手術の最中だそうだ。忙しいのに、ほんとすいません。


9月17日(金)

東大の主治医の先生にメールを出す。

「また熱をだしました」

この先生は、とにかく、動きの素早い人だ。メールの到着を知れば、それが英文であろうと、誰であろうと、さっとレスを書いて返事をくれる。

そこには、一言こう書かれていた。

『SBPを疑っています。詳しくは丸橋Drへ』

昨日、丸橋先生には通訳までしてもらったところだ、この上、素人相手に面倒な病気の説明までしてもらっては悪い。本当に悪いと思う。けど、電話する。

電話にでたのは奥様だった。

丸橋先生は、今夜は当直で、ついさっき病院から呼び出され、いつ帰るかわからないという。

やはり忙しいそうだ、こうなったら自力で調べるしかない。ネット検索にかける。あっさり網にかかった。

簡単に整理したものを下に書いておく。

──────

特発性細菌性腹膜炎
(Spontaneous bacterial peritonitis,SBP)

肥大症性肝硬変に合併する病態である。頻度は腹水を有する肝硬変の10%前後で稀な疾患ではない。

症状は発熱、腹痛が多く、下痢、血圧低下、肝性昏睡なども認められる。

──────

言われていたこと、聞かれていたことが、ことごとく身に当てはまる。発熱ははっきりした症状としても、

「お腹は痛くないですか?下痢はしていませんか?」

「もし、熱が下がらないようなら、入院して検査して、抗生物質を

飲んでもらうことになるでしょう」

そうか、これを心配していたのか。

オレは問診のとき、

「お腹は、そんなに痛くないです」と中途半端な返事をしていた。

(、、、、、、、、、、。)

思いかえす。

(お腹は、痛かったかなあ?)

考えると、すごく痛かった時もあった気がするし、そうでもないような。

とりあえず、今回は検査もなし、抗生物質もなしとなったが、問診の大切さをしみじみ感じた。

(そういえば、、。ちょっとは痛かったかも)


9月18日(土)

熱が下がって二日が過ぎた、妻に誘われて買い物にいく。

目の前のガストンAv.からでてる、19系等のバスは、いつも行くスーパーの前まで行くらしい。

いつものスーパーとは、患者アパートが出してくれる、買い物バスが行くところだ。

昨日妻は、その買い物ツアーに参加したはずだ。なんのことはない。買い忘れた物があったのだ。バスだったら楽だし、気分転換もかねて、出かけることにする。

これで、バスに乗るのは何回目だろう。

4、5回乗ってるはずだ。運賃の支払いも、手馴れたもんだ。後は目的地の前で運転手に一言「ストップヒア」だ。

これで、OKだと思ってた。

今回、始めて気がついた。車内アナウンスが流れている。これは、次ぎに止まるバス亭を告げているのだが、その中に時々

「止まれの合図がありました。次ぎ止ります」

というアナウンスが入ってくるのだ。

止まれの合図?

今までは、バスに乗るといっても、バス亭を2つとかの距離だったが、今回は郊外のスーパーである。

確かに、降りる人達を見ていても、誰一人、運転手に、

「ストップヒア」などと言ってる奴はいない。

どんな合図をしているんだろうと、密かに観察していると、あるではないか!止まれのスイッチが。

それは、押せば光り輝く、ランプのボタンではなかった。バスの窓の枠にそって、縱に長く走るタッチセンサー。

その枠に小さなプレートが貼ってある。「止まる時はここ押して」みたいなことが書かれているのだ。

わかる訳がない。ちょっとみただけなら、単なる窓枠だ。

その細長い形状であろうスイッチは、黒いカバーで迷彩をほどこされ、周囲の窓枠と同調している。

全ての謎が、とけた。

帰りに昼飯を近くのレストランで食べる。レストランといっても、ハンバーガーとかなんだけど。アメリカに来て、始めて二人だけで外食する。


9月19日(日)

なにもなく、一日も終わろうとしていた。

夜10時くらいだろうか、オレの体調を気使って、丸橋先生が電話をかけてきた。

「大丈夫ですか?熱はでてませんか?」

「あっもう、平気ですよ」と、オレは何の気なしにテーブルの上の

体温計を手にとる。

昨日、外出したこと、食欲もまだ完全ではないが、少しは食べてることなどを話す。

「熱も、もうないですよ」と、脇の下に入れていた体温計を取り出す。

F100度(C37.8度)あった。

「あっ100度あった」

自分では気付いていなかった。

とにかく、これ以上、熱が上がったら先生に連絡(ポケベル)しますので、と電話を置く。

この時間に、この体温だと、明日には確実に上がっているだろう。とにかく、ベットに潜り混んで寝ることにする。


9月20日(月)

朝目が覚めたらクラクラだった。

熱は103度を超えている。

とにかく、丸橋先生のポケベルに連絡をいれる。すぐに電話があり、今の状態を伝える。

Dr.Crippinと相談して、それから、また連絡するという。

それまで自宅待機だ。ソファーで横になっていた。目を閉じると、そのまま睡魔が襲ってくる。

脳症のためか、肝性昏睡らしき症状がでてる。

起こされたのは、午前10時だった。10時30分にDr.Crippinが診察してくれるという。妻の肩につかまり、なんとか病院へ。

診察室で待っていると、何やら道具を持ってDr.Crippinが現れた。腹水を抜き、中の菌を調べるらしい。

先日の血液検査の結果では、白血球が増えているという。

お腹に局部麻酔を打つ。そこに太い注射を差す。そして、腹水を採取するのだ。

結果が3時間後くらいにでるので、それまでアパートで待機との事。アパートで昏睡状態になりつつ待機。

電話のベルが鳴る。それは、ベイラーでの入院体験初日スタートの合図だった。


入院させないアメリカ

アメリカ人は、パワフルだ。ちょっとの手術くらいじゃ入院しない。

ヘルニアの手術や盲腸なら一泊。

麻酔がきれて意識が戻ったら帰っちゃう。そんな人だっているかも知れない。

オレも静脈瘤の処置をした。日本なら、一週間は入院だろう。そして、禁食だ。しかし、アメリカの場合は、入院なしだった。

確かに、入院しなくても平気だったし。食事も翌日から、普通に食べていた。

一応心配だったので、Dr.Crippinに聞いたものだ。

「本当に平気なんですか?日本では食事もとれないんですよ」

するとDr.Crippinは、顔を思いっきりしかめ、首をふり、肩をすぼめ、手を広げ、体全体で話してくれた。

「全然、問題ないよ」

それが、今回は入院である。

抗生物質の投与のためなのだが、今まで、そういう理由で入院したことがない。日本でも、入院治療が必要な症状なのだろうか?

これまでも(日本で)、入院の直接のきっかけは発熱が多かった。しかし、入院後の治療は肝機能の回復に焦点があてられた。退院するときには、熱は下がっていた。

ただ下がっていたと言っても、オレのその頃の平均体温は37.2度くらいで、誰もそのことを問題にしなかった。

オレも、肝臓に慢性の炎症を持ってるんだから、これくらいはいつもでているものだと思っていた。

そういえば、渡米前にも熱をだした。その時も、東大の先生に特発性細菌性腹膜炎の疑いがあると言われた。

とりあえず、経口の抗生物質と座薬でその場をしのいだ。

そして、今回の特発性細菌性腹膜炎での入院。まさか、移植前に入院するような事態になるとは、思ってもいなかった。

ただでさえ、アメリカでは入院しないものだから。

まあ、移植前の予行練習のつもりで入院生活をおくろう。もちろん、入院は内科である。


入院した夜から朝まで看護婦の嵐!

『まあ、移植前の予行練習のつもりで入院生活をおくろう』

なんて余裕のあるセリフだろう。この文章を書いている現在は、退院している。

入院当時とは違い、気分も良く、心と体にゆとりがある。うっかりすると、その時の感情と全然違う事を書いてしまう。

入院直後は、予行練習なんて思う余裕は全然なかった。とにかく熱にうなされ、半覚醒状態のまま病室まで連れられ、そのままベットに転がっていた。

やけに寒気がする、とにかく寒い!

しかし、アメリカのベッドにはかけ布団などない。毛布もない。シーツが一枚あるだけだ。

しょうがないから、大量にシーツを持ってきてもらい、それを頭からすっぽりかぶり、体を丸めて縮こまっていた。

すると、オレを呼ぶ声がする。

肩を揺さぶる奴がいる。採血にきたナースAだ。腕をだすのも寒くていやだが、しょうがない。

しばらくすると、体温と血圧を測定にナースBが来る。

それが終わると、点滴の針を刺しにくるナースC。このナースは、針だけ刺して帰っていった。

そして、次ぎのナースDがくる。彼女は、点滴の液体を針とつなげる。

今度くるナースxは何をしてくれるのだろう?そう思って待っていると、案の定現れる。

そして、また血を抜かれたりする。とにかく、人がひっきりなしに出入りしている。

なんなんだ~。と思っていると、丸橋先生が現れた。

「萩原さん、血液中から、バイ菌が見つかりました」

グラム陰性かん菌。

どんな菌なのか、さっぱりわからないがバイ菌らしい。腹水の中の菌は、まだ培養中で結果はでていないが、とりあえず、その菌に効く抗生物質を始めるという。

夜も10時を過ぎた頃から、抗生物質の点滴が始まり、人の出入りは朝まで絶えることはなかった。夜中であろうと、体重計を持ってきて、「乗れ」と起こされる。

なぜ、これほどまでに、人が出入りするのか?

ナースの仕事が、細かく役割分担されているのだ。

点滴のための針だけ刺すナース。

薬の投与を担当する人。

血圧や体温などの管理。

採血専門のナース。

他にも、いろいろあるだろう。

日本との決定的な看護システムの違いだ。

最初はとまどった、誰がナースなのかわからないのだ。結局、全ての人がナースだった。


入院環境

ベイラーの入院施設は全て個室だ。大部屋などはない。個人の権利とプライバシーを大切にするアメリカらしい。

部屋の広さはワンルームマンションぐらいはあるだろう。バストイレがついて、部屋の中央にはベット。

テレビは当たり前だとしても、電話がついている。もちろん、市内はかけ放題だ。

妻が、入院2日目からノートパソコンを持ち込み、ネットに繋いでいた。

見舞い時間は24時間。つまり、泊まり込んでの看護を身内の人間がしてもいいわけだ。

妻は、泊まりこみの看病だ。そもそも、見舞い許可時間なんて概念がアメリカ人にはないだろう。

この時間は見舞いできません。そんなことを病院にいわれる筋合いはないのだ。


治療経過

初日から、点滴による抗生物質の投与。熱は2日目の朝には、ほぼ下がった。

自分では、まだ熱ぽかったが、シャワーをあびるはめになったくらいだ。

毎朝、採血があるのだが、朝の5時と早朝だ。痛みで目が覚め、腕をみると針がささっていたりする。

血液検査の結果、貧血だという。赤血球を輸血することになる。

輸血はなんどかしたことあるが、少なからずダメージがある。まあ発熱程度だが、これも拒絶反応の一種なのだろう。

真っ赤な鮮血が点滴の管をとおって、腕の中に流れ込む。

輸血を受けながら考えた。

(、、この血は誰の血なのだろう?)

改めて考えると、他人の血が自分の中に入りこんでいる違和感を感じる。なんだか恐怖に似た感情すらわく。

馬鹿な話しだ、オレは肝臓移植をしようとしている身なのに。

輸血後は好調を取り戻して退院。

とは、すんなりいかなかった。

腹膜炎というくらいだから、やはり炎症ができている。そこから、血液中の水分がもれだし、腹水が、たまりにたまってしまった。

お腹が膨れて、破裂寸前である。

利尿剤を増やして、なんとか少しは治まった。

最終的には、抗生物質を経口薬にかえて退院。一週間の入院だった。


英語の力量

自分の英会話レベルがわかった。

2音節を話す、赤ちゃんだ。

「ママ マンマ」

「パパ ダッコ」

それでも、ダラスにきたばかりに比べれば、成長している。

一応、英会話らしきものにはなる。

「It’s pain 」「No pain」

「I’m fine」「 No fine」

入院中は必然で会話が必要になる。けっこう、単語を覚えたし、英会話の勉強になった。

始めて会うナースが部屋にくると、彼女は自己紹介する。

その時、

「こちらは日本人、英語少しだけ」といった事を言う。

そうすると、相手も優しい英語でゆっくり話してくれる。

Dr.Crippinも困ったろう。

血液検査の結果や、触診などで、症状の経過はわかっていても、やさしい英語で、オレに理解させなければならない。

最後の3日間は同じことを言っていた。

「May be, Sunday, Monday, go to home. Getting better」

そして、太い腕を差し出し、堅い握手を交わす。結局、日曜日に退院できた。


出会った人々

優しいナースばかりだった。その中でも、印象に残った人を紹介する。まずは、南アフリカ出身の年配のナース。

彼女は、夜の薬担当のナースだった。点滴は薬である、抗生物質を投与する時間にくるのだが、いろいろ、教えてもらった。

ナースセンターにある冷蔵庫のものは、勝手に食べてもいいんだよ。そう言って、山ほどビスケットを持ってきてくれる。

点滴を変えてる時に、話しをした。

日本からきた。/come from Japan.

肝臓移植のためだ。/liver transplantation.

患者アパートに住んでいる。/I lived twice blessed houses.

子供が一人いる。7才。/my son 7 years old.

彼は日本。/He lived in Japan.

彼女も、自分のことを話してくれた。南アからアメリカにきたのが、26年前。夫は、数学の先生。今週の木曜日に、一ヶ月間、南アに帰省する。

彼女は、日本からきて大変ねと同情してくれているらしい。そして、どうやら、うちの妻を気にいったみたいだ。

彼女がなにやら言う。

これは、オレがヒアリングで捕まえた単語だ。

木曜日。南ア。こないか?

妻に向かって、一緒に南アにこないか?と聞いているのか?

ちょっと待て、オレはどうなってしまうのだ。そんなはずはない。彼女が同じ言葉をくりかえす。

どうやら、木曜日の朝に発つから、その前にうちにこないか?と聞いてるらしい。

その日は火曜の夜だった。

夜勤明けのまま、家に招待するということなのか?

よくわからないが、さすがに断わったほうが良いだろう。妻と二人で悩んでしまった。

「せっかくですが」って英語でなんていうんだろう。

「No thank you」じゃ、ぶっきらぼうだし。

自然にでてきた言葉は、

「I’m sorry」

彼女は、気にしないで、みたいな事をいっていた。帰ってきたら連絡下さいと、アパートの連絡先を書いて渡した。

彼女は、今頃、南アで久々の帰省を楽しんでいるだろう。

そしてもう一人、メキシコ出身の、とにかく元気のいいオバチャンナース。

入院二日目の朝、オレは「いやだ」と言うのに、無理矢理シャワーを浴びさせられた。

日本もアメリカもオバチャンパワーは変わらない。朝、体温を計る係りの人が来て、熱をはかっていった。

確かに下がっていたが、まだ微熱は残ってるし、自覚症状として、熱ぽい。そこへ、元気に彼女が登場。

なんだか英語をまくしたて、オレにシャワーを浴びろと言っている。

オレが、「I’m fever」(熱がある)といってるのに。

彼女は「No fever ! !」と勝手に決めつける。

「確かに、熱を計ったときはなかったけど、また熱がぶりかえしてもやだし、ここは大事をとって様子が見たい」

とは、英語でいえない。

「No thanks」である。

すると彼女は、両手を広げて、「why?」

そんな「ホワイ?」って聞かれても、、、、。

もう、しょうがない、シャワーを浴びることになった。この人は、とにかく元気のいい人だった。

だいたい入院初日の朝、あれほど、「オレは寒いんだ!」といってるのに、無理矢理ベッドの上で素っ裸にして、病院支給のパジャマに着替えさせたのは、彼女だ。


病院食

日本と一緒でおいしいとはいえない。しかも、口にあわない外国食だ。塩分制限があるのだが、肉にはしっかり味がついている。

その分、つけあわせの野菜には、なんの味もしない。妻に、料理を差し入れてもらっていた。


まとめ

日本と違って、入院してもお見舞いにきてくれる友人はいない。確かに、ここは異国の地。ところが、お見舞いに来てくれた人がいたのだ。

ダラスに在住の人が、偶然、オレのホームページを見て、協力の手を差し伸べてくれることになったのだ。

家族でこちらに住んでいて、ダラスの大学院の女子大生だ。さっそく、お見舞いにもきてくれた。

そして、

子供の頃に通っていた教会の系列が、去年ダラスにもできたのだが。

(もちろん、そんなことは知らなかった)

そこの牧師のヘリングさんもお見舞いにきてくれた。ヘリングさんは、ずっと水戸で宣教師をされており、日本語はペラペラだ。

そして、丸橋先生。

先生は、自分の仕事の合間をぬって、病室へ回診にきてくれていた。それだけでもありがたいのに、仕事が終わって家に帰ってからも、奥様を連れて、顔をだしてくれる。

周りの人達に支えられ、無事退院することができた。

しかし、入院はアメリカでも、あまり愉快な事ではない。退院の言葉をドクターから聞くと、嬉しくなるのは、日本にいた時と一緒だった。


9月26日(日)

午前中、退院手続きを終える。

日本であれば、家族三人で住み慣れたアパートヘ帰る。しかし、僕らが帰るのはTwice Blessed House(患者アパート)。

入院しているのと、さして変わりない気もするが、それでも病院のベッドよりはましか。

ランチの用意をしようと冷蔵庫を開ける。生鮮食品が何もないことに気がついた。さすがに、カップラーメンで、その場をしのぐというわけにもいかないだろう。

妻が、スーパーへ買い物に行くという。お願いして、オレもついていく事にした。アパートに一人になるのが、嫌なんだ。

アパートの前から、バスにのる。10分ほど走れば、大きいスーパーがある。

妻が、窓の外をながめている。

「あっ、アリソンさん!」

アリソンさんとは、ベイラーの経理の人だ。妻のメール友だちでもある。以前紹介した。妻の英文でのメールも、彼女にあてたものだった。

ぼくらは、慌ててバスのストップリクエストを押した。バスから飛び下りて、庭の手入れをしている、白人女性に近づく。

腰をおとして、そっと横顔を確認しつつ、家の前をいったりきたりする、オレ達二人。

かなり怪しい日本人である。

彼女が、家の中に消えていった。人違いだったら、どうしよう。彼女が、ショットガンを持って出てきてもおかしくない。

彼女は、スコップを持ってあらわれた。

目と目があった。

「オーーーゥ、ハギワラ!!」

アリソンさんだった。彼女は、驚いていた。

片言の英語で事情を説明する。

今日退院して、食べるものがないので、買い出しにきた。すると彼女が、一緒に行こうと、スーパーに連れていってくれた。

彼女のマイカーは、ピックアップトラックだ。

帰りにベイラーによってくれ、日曜日でもやっている、地下にある、ファーマシー(処方薬をだしてくれる薬局)へ連れていってくれた。

妻はアリソンさんに会えて嬉しそうだった。


9月27日(月)

自宅にて、一日安静。

腹水がだいぶ減った。なんてったって、利尿剤を日本にいた頃の3倍は飲んでる。

おしっこが、異常にでる。腹水の心配は、なくなったが、今度は脱水症状に気をつけなくては。


9月28日(火)

ダラスに来て、だいぶたった気がする。そうなんだよ、気がするだけなんだよ。まだ、一月ちょっとしか過ぎていない。

移植待機も、5週間。

8月は、あっというまに過ぎ。9月は、熱にうなされながら通りすぎた。もうすぐ、10月だ。


9月29(水)

あれほど、パンパンだったお腹が、すっきりしている。腹水も、ほとんどないみたいだ。

アメリカの医療は、日本に比べると、大胆というか雑に見えるときがある。それでいて、きっちり肝心なところは押さえている。

不眠症ぎみだ。

眠れないので、発音の練習。

ABCDEF~

今さらアルファベットの発音練習なんて。そう思うかも知れない。以外にちゃんと発音してなくて、略語なんか通じないのよ。

数字も、きちんと通じない。体温とか報告するときに困るのだ。


9月30(木)

今日は、朝一でDr.Crippinの外来の日だ。

体調は良いこと、腹水もなくなったと告げる。ドクターも満足そうだ。ただ、脱水症状に気をつけるようにとのことだった。

それと気になっていたことがあるので、聞いた。

処方されている薬に、降圧剤があるのだ。オレは、ただでさえ低血圧なのになぜだ?と思っていた。

これは、静脈瘤の発育を押さえるため、血流を押さえるためらしい。

なるほど、納得。

それにしても、熱がぜんぜんなくなった。微熱が平熱になってから、2年くらいたつが、その間、ずっと血液中に菌がいたのだろうか?

疲れると、すぐ高熱がでていた。体が弱ると菌が増え、それが原因で発熱していたということか?