1999年8月 渡米

注意
これは1999年の日記のため、情報が古いです。また、医療情報についても素人患者の闘病記です。ご自身の健康に関しては、医療機関に相談してください。

8月1日(日)

妻は子供と奥多摩へハイキング。一時の夏休みを楽しむ。

オレは、英会話の勉強に励むが、すぐに飽きる。


8月2日(月)

義妹Yちゃんと、彼氏から素敵なプレゼント。

日本語翻訳器。

いざとなれば、これで会話すればOK。


8月3日(火)

東大で、点滴と薬。

中央線とバスで通うが、きつく感じるようになってきた。

ビリルビンの数字が、5~6に落ち着いてしまった。こうなると、余命はたいてい半年だそうだ。

渡米するのも、タイムリミットだ。救う会の人達が、いろいろ動いてくれている。倒れる人がでなければいいが。

妻の友人が、トランクを貸してくれることになった。わざわざ運んでくれる。

夜、トリオの荒波さんから、全ての用意が整ったと連絡がある。ダラスのベイラーメディカルセンターに、無事振り込みが済んだそうだ。

代表の小形君、妹夫婦からも次々と「おめでとう、頑張って」と励ましの電話が。

タイタンのみんな、お笑い仲間のみんな、応援してくれてるファンのみなさん、東大の主治医の先生、河北のT先生、お世話になった看護婦さん、薬剤師さん、栄養士さん、トリオの荒波夫妻、そして、倒れるまで頑張ってくれている、救う会のみんな、ほんとうにありがとう。

いよいよ、スタート地点に到達できます。

しかし、喜んでばかりもいられない。明日、パスポートを取りにいかなければいけないし。医療ビザの申請もあるし、引っ越しの用意もあるし、まだ、東大にいかなきゃならないし、細々とした雑用が、、、。

ダラスに行く前に倒れぬよう、気をつけなくては。


8月4日(水)

アメリカ大使館で、医療ビザの申請について問いあわせる。

電話すると、日本人だろう、日本語の通じる奴がでる。

そして、

「医療ビザの問いあわせなんですが」と伝えると、

「0990のサービス案内で確認して下さい」という。

ダイアルQ2で確認するが、医療ビザの案内などない。

アメリカ大使館にまた電話。

医療ビザの案内なんて、ないことを伝えようとすると、人の話しを無理矢理奪いとり、とにかく0990に電話してくれという。

オレが間違ってるのかと、Q2サービスに又、電話する。

やはり無い。

また、アメリカ大使館に電話。またダイアルQ2に電話しろという。

いいかげん腹がたち、気がついたら怒鳴っていた。

結局、医療ビザは特別のビザなので、直接、但当の者に電話をかわってもらった。とにかく、アメリカ大使館は日本以上に役所的なところだ。

どっと疲れた。

このあと、パスポートをとりにいくのが面倒になる。


8月5日(木)

東大病院にいく。先生が笑顔で迎えてこくれる。

「おめでとう。ベイラーからファックスも届いてるよ」

英語が読めないのでわからないが、教授のクリッピング先生から、日本のアメリカ大使館にあてたものだ。

かなり丁寧な手紙で、これさえあれば大使館もすぐビザを発行してくれると、東大の先生が太鼓判を押してくれた。

夕方、金谷君が遊びにきてくれる。

世間話しをしていると、事務所のタイタンから電話が鳴る。

突然であるが、ドキュメンタリーの取材がはいったという。

フジテレビで、土曜の朝に放送している、情報一番花やしきという番組らしい。

妻とヒロタカと金谷君と事務所に行く、スタッフを紹介され、その後打ち合わせ。

金谷君はヒロタカのお守り役になってしまう。

今日は、打ち合わせだけかと思ったら「この後、自宅で取材してもいいですか」ということになってしまった。

それではと、皆で我が家に向かうことになったが、ヒロタカがいなくなってる事に気づいた。

金谷君はもう、家に帰ってしまっている。

ヒロタカも家にいるだろう、とアパートに戻ると、やはり部屋でポツンとテレビを見ていた。

うちの子供は、何度かテレビにでたことあるが、実は非常に照れ屋である。

父親のオレが、普通のカメラを向けるのさえ嫌がる時もある。

案の定、スタッフがカメラを持ち込んだ途端に、家を飛び出してしまった。

妻と社長が追い掛けて捕まえると、狂ったように泣きだした。

数日前、栃木県庁での記者会見の席でも、ヒロタカがおびえるように泣き出した。

記者会見では、県庁を移動するのに車イスを使った。その時は知らなかったが、ヒロタカが泣き出したのは、オレが車イスに座ったのを見たときだったらしい。

ヒロタカはオレの吐血を二度とも目にしている。危篤状態になったときは、死にかけて恐ろしい形相をしたオレを見ている。

ヒロタカは、かなりナーバスになっているのかも知れない。

とりあえず、妻とオレの取材だけすます。その間、スタッフの人がヒロタカと遊んでくれていた。すっかり、機嫌が直ってる。

ホット一安心である。


8月6日(金)

妻は朝はやくから、アメリカ大使館に行き、医療ビザの申請だ。

オレはヒロタカを連れて、小学校へ転校の手続きをする。移植が無事成功したら、また、この杉並に戻ってくるつもりだ。できれば、同じ小学校に戻らせたい。

担任の先生と校長先生に励まされ、帰路につく。

家で横になっていると、妻からビザがおりたとの連絡。これで、アメリカへの片道キップが買える。

一度戻ってきた妻は、一刻もはやくとアメリカン航空へキップを買いに走る。

彼女が戻ってきたのは、夕方5時。その手には、

『8月11日 ダラス行き 60便 17時55分発』の航空チケットが。

準備は全て整った。

夜、古い芸人仲間の、まさかり炎さん、エスパー伊藤さんが、お見舞にきてくれる。


8月7日(土)

午前中、涼しいうちに阿佐ヶ谷の七夕をみてまわる。

午後、部屋の片付けや、昼寝。

事務所から、アスキーのネタを催促される。

なんか、やることが一杯ある気がしてならない。

静かな一日だが、なんか心は慌ててる。


8月8日(日)

両親に妹夫婦が来る。

病気だったおやじが元気そうで安心した。

妹夫婦には頭があがらない。自宅を提供してくれ、救う会の事務所にしてくれている。

妹夫婦のところに電話する。

「はい、萩原正人さんを救う会です」

すっかり、電話も占領された。

救う会のHPも、妹の旦那さんである、赤坂さんが作成管理している。

従兄弟や友人達は、今日も街頭募金をしてくれているという。

この暑い中、、、感謝の言葉がみつからない。お笑いファンの子も協力してくれているという。


8月9日(月)

朝8時起床。河北で薬の処方箋を頼んでくる。

その後、東大で点滴。

帰宅後、河北に処方をとりにいき。お世話になったT先生に渡米の報告をする。

テレビの取材がついてくる。

自宅でも取材。

この先手術が終わり、帰国するまで、取材は続く。


8月10日(火)

東大にいき、渡米前最後の点滴。そして、血液検査。

ビリルビンが6台になっている。

見た目には、健康そうに見えるが、肝臓はボロボロだ。

主治医の先生が、人を紹介してあげると、外来の待ち合い室にいく。

そこには、数人の肝臓移植を経験した人達がいた。

「明日、移植で渡米する萩原君」

「どうも、はじめまして」

頭を下げた先にいたのは、滅茶苦茶元気なおばさん軍団だった。

誰もかれもが、ついこの前まで、死に直面するほどの大病を患ってた人にはみえない。実際に移植を経験した人に励まされるのは、やはり心強い。

帰宅後、テレビの取材の続き。

ヒロタカのわがままが始まる。

5番6番(漫才師)の樋口に電話する。彼はヒロタカの親友だ。喜んで遊びに来てくれる。取材中、彼がヒロタカと遊んでくれる。

金谷くんが、一日早い、お見送りに来る。

「明日、成田にいけないから」と来てくれる。

電話で済まそうと思えば、それもできることなのに、わざわざ、来てくれるのが、彼の優しさだ。

夜、事務所へ挨拶にいく。

爆笑問題の二人が打ち合わせをしていた。ゆっくり話しはできなかったが、渡米の挨拶。

自宅に帰って、友人達にお礼の電話。

なんとか、荷物の整理も済みそうだ。いや~~~この一週間は忙しかった。

いよいよ、明日渡米だ!


8月11日(水)

渡米の朝がきた。

結局、ゆっくり本を買いに行く暇も、心の余裕もなかった。

11時30分には、小形氏が迎えにくる。

アメリカへの出発も自宅のアパートから取材カメラがはいる。最後まで、慌ただしく時間に追われる。

なんか、忘れている気がしてならない。

そうだ!箸を買うのを忘れてた。アメリカに持っていく、ピカピカの箸。

慌ててコンビニに行く。ついでに駅前の本屋に足を伸ばして、数冊の本を買い込む。

小形氏が車で迎えに来た。その後ろには、はやくもカメラマンが張り付いている。

渡米前の心境などきかれる。しかし、、、、、、、

ただ、ただ慌ただしく、感慨も深くは生まれない。

阿佐ヶ谷を12時にでて、野村さんを迎えに行く。

マンションからでてきた野村さんを見て、ビックリ。

荷物が、小さいスーツケース一つだけだ。それに比べオレ達の荷物ときたら、、、、。

しょうがない、と言えばしょうがない。

トランク一杯につめただけでは、間にあわない薬が山ほどあるのだ。

予定時間に、成田に着く。

ここからは人混みみを歩くし、あちこち連れ回される。チェックインを済ますと、車椅子を借りた。

会場に通じるエレベーターの前に来ると、友人達がいた。アメリカ行きへの道を、つくってくれた友人だ。仕事を休んで、見送りにきてくれている。

一人一人ゆっくり話しがしたいが、ここでも時間に追われる。

記者会見が始まるからと、エレベータに乗せられる。会見場までの通路のわきを見ると、見慣れた顔がある。タイタンのお笑い仲間である。

会見が始まった。

オレは会見途中、悔しくも泣いてしまった。妻も涙を隠している。ヒロタカは、落ち着きなくウロチョロしている。

夕べは3人で夜中まで遊んだ。ヒロタカは納得してくれているはずだ。オレと妻が帰るまで、栃木の実家での留守番。

子供は順応性が高い。それに、オレ達と違って祖父母は口うるさくない。きっと、我慢できるだろう。

記者会見が終わると、従兄弟がしきりの記念写真会になった。約束の搭乗時間は過ぎている。

会見をしきってくれていた、トリオの荒波さんが、

「では、そろそろ」

と車椅子を押して、搭乗口に向かおうとする、すると、ネットで知り合ったファンの子達がやってきて、励ましてくれた。手紙や、千羽鶴、お守りなどを頂く。

インターネットをやっていると、ネット上で友人もできる。しかし、オレはオフ会というものに出席したことなかった。

これも、一応オフ会だ。

始めてのオフ会は、海外肝臓移植応援オフ。

搭乗口に行くまでの、通路を車椅子で行く。励ましの声が、だんだん小さくなっていく。

「ママ、パパ、いってらっしゃい!」


8月11日 (入国~アメリカ)

アメリカン航空60便は、無事に成田空港を離陸した。

機内の空調がメチャクチャ寒い。妻の毛布も借りてくるまっていた。

妻は、飛行機嫌いである。こんなものが空を飛ぶなんて!と墜落しないように手をあわせている。

オレの心配は静脈瘤である。気圧の違いにより、破裂することがあるのだという。ただ、渡米直前の内視鏡検査によれば、その心配はないと言っていた。その言葉を信じるのみである。

しばらくすると、機内食である。

妻が、アメリカン航空でチケットを買った時、オレのために特別メニューを注文してあると言う。

スペシャルベジタリアンコース。オレには、食事制限がいろいろある。あれもダメこれもダメと選んでいたら、これが残ったそうだ。

皿の上には、ハトの餌のようなパサパサしたライス。果物に、サラダ。全てを平らげ、薬を飲む。

横で、オレの行動を見ていた野村さんがいう。

「萩原君は少食だね」

「へっ?そんなことないですけど」

「だって前菜だけで、お腹一杯なんでしょ。食後の薬飲んでるし」

「前菜?」

「食事はコースだよ。この後メイン、デザート」

なるほど、あまりにも量が少なすぎると思った。

メインは、野菜の炒めたものに、パスタだった。隣の妻を見れば、チキンの丸焼きである。聞かなきゃいいのに、

「おいしい?」

聞いちゃうオレ。

「うん、おいしい」

隣の芝生は青く見えるというが、目の錯覚ではない。真っ青である。

ダラスに到着。夕方の4時だ。

静脈瘤もおとなしくしてくれて、またハードルを一つ越す。そして次ぎのハードルだ。大量の薬を持ち込むため、税関でトラブル可能性があるのだ。妻は、この点を随分心配していた。

しかし、心配は単なる杞憂に終わる。パスポートに張られた医療ビザ。野村さんの流暢な英語での事情説明。これで、中身のチェックもなく税関をパスした。

ダラス空港はでかい。その広さは、山の手線が入ってしまうほどだという。

野村さんの奥様のカリンさんが、ダラス空港に迎えに来てくれている。

これも、適等に「じゃダラス空港で」なんて待ち合わせじゃ、迷子確実である。

カリンさんの実家に到着、今夜はこちらに泊めてもらう。部屋に案内されると、二組のベットのある寝室だ。

「とりあえず、くつろいで下さい」の言葉に甘え、ベットに横になる。

強烈な睡魔が襲ってくる。このまま寝てしまってもいいが、明日から検査がある。

なんの検査か知らないが、今夜12時から明日の昼まで、禁食である。なにか、食べておかねば。

スーパー買い出し。なんだかんだ、悩んだ末に寿司を買う。魚ネタじゃなきゃ、それほど問題ないし。魚も食べちゃいけないわけじゃない。

少し食事制限に触れておく。

食事制限はあるが、食べちゃいけないものがあるわけではない。

もちろん中にはある。チーズとか油料理だ。オレの食事制限は、塩分と、タンパク質の取り過ぎがいけないのだ。

タンパク質の多い食品は、ごく少ししか食べれない。

そうでない食品、野菜などだが、そういったものがメインにならざるおえない。

カリンさんの実家に戻る。奥様の御両親がいた。英語で挨拶。

「ナイス トー ミート ユー」

アメリカでの始めての夕食は、寿司だった。

「うまい!」とはいえないが、「寿司だ!」とは言える代物だった。


8月12日(木)

いよいよ、ベイラー初日である。妻に野村夫妻と共に、車に乗り込む。運転はカリン婦人だ。

野村さんが、アメリカ的な街の構造を教えてくれる。都心部に近いほど、貧困層が住んでいるそうだ。家をみれば、一目瞭然。ちょっと地震でもくれば倒れそうな建物だったりする。

野村さんの実家のある一画は、平均的か、それ以上のアメリカ人住む土地だ。もう少し郊外に行くと日本でいう田園調布のような豪邸が並ぶ。

オレ達は、郊外の住宅地からダウンタウンヘ。都心部に近付くにつれ、生活レベルが下がって行く。手入れされていない庭は、枯れて、伸び放題。

カリンさんの実家の青々と芝とは対照的だ。

アメリカ映画に出てくる、郊外の住宅街。立ち並ぶ家の前は、どこも青い芝がおおう。その前は、鋪装された車道だ。

歩道は、二人並んで歩く程のスペースが、芝と車道の間にある。実は個人の敷地は、この家の前の芝まで、車道の手前までなのだ。

歩道すら個人の土地で、みんなの為に提供する公共のスペース。

確かに、芝の前には、それを仕切る立ち木や塀はない。どうせなら、狭い歩道などではなく、青い芝の上をのんびり歩いて散歩したいものだ。

しかしそれは、他人の庭を横切りまくって歩いているのである。

今日の朝、近所を散歩した。芝の上に、ビニール袋に入った新聞が転がっている。捨てられているのではない。個人の家に配られているのだ。

朝刊を配るというより、庭に放り投げる。がアメリカ式だ。

話しがそれた。我々はベイラーへ向かっていた。自宅を出てから20分ほどだろうか、そろそろ、ダウンタウンの入り口だ。

この辺にベイラーがある。と聞いていた。と思っていたら、ひときわ目立つ高層ビルが見えた。

大きくベイラーと英語で書かれている。そして、ロバーツと。これから肝臓移植となれば、お世話になるロバーツビルだ。

遂にベイラーまで辿りついた。

最初の検査は腹部エコーだ。日本でも、やりなれた検査で、不安もない。

約束の時間に受け付けへ行く。受け付けの手続きも、野村さんがしてくれる。英語のできない我々夫婦は、本当に助かっている。

しかし、野村さんも東京での仕事がある。ダラスに、いてもらえるのも、8月中だろう。

その後のことを考えると恐ろしい。

まずは腹部エコーの検査だ。これは、超音波を体にあて、その音波の反応で内蔵を画像化する検査だ。

痛くみや苦痛はない。こちらは、言われたとおりに息を止めたり、吐いたりすればいい。

言われたとおり、、、、、

そう、英語で言われたとおりに。

しかし、心配無用。通訳で野村さんも同室してくれた。

検査を終えると、技師が、ドクターも確認するか聞いてくると立ち去った。

ドクターがやってきた、現れたのはアメリカの美少女。彼女は、オレの腹の奥を探ると指でOKのマークを見せた。

ガンもなく、いい肝臓である。

もちろん、肝硬変で肝臓は小さくなり、脾臓は肥大していても、大きなガンがないのは、移植適応の第一歩である。

美少女の次ぎは、迫力満点の黒人の体格のいいオバサンだ。

腎機能の検査である。この検査は、日本で行ったことがない。

オバサンが野村さんに、検査の内容を説明している。

戻ってきた野村さん。もう食事をしてもいいらしい。そして、とにかく水分を取れとのことである。

48オンス(約1.5リットル)の水分。ドクターペッパーでもなんでも、好きなものを飲んでいいという。

ダラスにドクターペッパーの本社があり、自販機が目立つ。

我々は、カフェテリアに行った。

様々な料理があり、好きなだけ器にとり、それをレジに持っていき精算するシステムだ。

みなは皿に料理を取り。それを流し込むためにドリンクを買う。

オレのトレイの上には12オンスのカップに各種のドリンク。そして、つまみ変わりにパン一個。

それほどきつくもなく、飲み干す。そして、お腹をたっぷん、たっぷんいわせて、検査室に戻る。

本番はこれからだった。

部屋に戻ると、また飲み物の種類の説明を受ける。

なんだ?と思ったら、ここから検査開始なのだ。

とりあえず、紅茶をもらう。運ばれてくる紅茶、そして、頼んでもいないのに水。

合計で12オンスくらいか?

これを30分で飲み干すのだが。

まず、15分後に血液を取る。

そして、30分後に、もちろん飲み干していなくてはいけないのだが、トイレで小水を取る。

そしてまた、飲み物をオーダーする。このくり返しである。これを計3回。

無理矢理、飲まされるわ、おしっこ出させられるわ、あげくのはてに、血まで抜かれる。

そんな検査だった。

続いてはおなじみのレントゲン。これは、日本と同じだ。なんの問題もなく済んだ。

今日の検査は、これで終了だ。しかし、まだこなさなければいけない事がある。

肝臓移植者のためのオリエンテーション、今回は移植者の住むアパートに関しての説明だった。

説明の全てを、野村さんが通訳してくれた。おかげで、大抵のことは把握できた。

野村さんは、このベイラーで肝臓移植をした大先輩である。オレは、ベイラーで二人めの日本人らしい。

まわりの人は、まったく日本語がわからない。今回の、野村さんが同行してくれたことは、偶然が重なり起きた幸運だ。

この幸運が、移植が済むまで続くことを祈る。

このアパートには毎日のようにイベントがある。スーパーやデパートへの買い物会や映画鑑賞。移植患者が集まっての食事会などだ。

さっそく、今日、その食事会だという。出席することにして、アパートの鍵をもらう。

オレと妻の住むアパートは、移植に適応かどうか決定する前まで住むアパートだ。

今日もそうだったが、これからも検査を続けて移植に適応か判断する。

適応と判断されて、晴れてドナーを待つ順番待ちに並べる。

不適応になったら、そく帰国だ。今までの苦労が水泡に帰す。

野村さんは、10年前にベイラーで移植を受けたが、適応、不適応の合格率は50%だったそうだ。

渡米の前に、虫歯も直してこいと言われたという。そんな話しは聞いてなかった。オレは虫歯だらけだ。虫歯で不適応じゃ、泣くに泣けない。

「当時は移植医療も始まったばかりで、感染症などのデータも少ないし、慎重だったんだよ」

野村さんが、慰めてくれるが、なんか不安になってきた。

妻と野村夫妻と夕食会にでかける。ダラスに陽が落ちるのは遅い。暗くなるのは8時過ぎくらいだろうか。外だけみてると、まだ夕食って雰囲気ではない。

夕食会があるのは、もう一つのアパートだ。

こちらは、適応になり待機している人と、移植後の人達の家族が住んでいる。

食事前に自己紹介をする。

「マイ ネイム イズ~」なんて簡単な自己紹介と、挨拶で済ませる。

ここでも野村さんが、全てフォローしてくれる。

食事が終わって、アパートに戻る。野村夫妻とは、今夜はここでお別れだ。

今日一日、お疲れさまでした、ほんと、ありがとうございます。

アパートからは直接、国際電話ができない。長距離や、国際電話用のカードが売っている。

ためしに10ドル分それを買う。面倒臭いが、なんとか通じた。ヒロタカと話す。わがまま言わず、元気らしい。

ほっと一息である。

少し荷物の整理をして、ベットに入る。体の芯から疲れてる。なのに眠れない!

時差ボケした脳みそと、興奮と不安だけがベットの上に転がっている。


8月13日(金)

アパートから、歩いて5分のところにセブンイレブンがあった。国際テレカを買う。

疲れもピークだ。気づいたら眠りこけてた。

食事をとらなければならない。ベイラーのカフェテラスにでかける。手持ちのドル札が100ドルばかりである。

大きい札は、レジで受け取ってもらえないことが多いらしい。病院のキャッシャーで両替えをしてもらう。

しかし、どこにキャッシャーがあるかもわからず。受け付けのおばさんに聞いても、チンプンカンプン。迷子になりながら、どうにかキャッシャーを発見。

英語で、両替えしてくれと頼む。なんとか通じたらしい。ほっとしたところで、遅い昼めしをカフェで食べる。


8月14日(土)

朝、セブンイレブン行く。なんと斜め前に、スーパーを発見。少しづつダラスでの生活が身近になってくる。

午後、野村夫妻が来る。日本の食料品店に連れていってもらう。日本からの輸入食品が並ぶ。味噌とカツブシも買ったし、味噌汁が飲める。

帰りにパソコンの店で、お試しプロバイダ入会CDをもらう。帰宅後、さっそくネットつなげるためマックを起動。

それから、何時間たったろう。なぜか、ネットにつながらない。アパートの電話では、ダメという噂もあるし、モデムの問題か?

繋がらない理由は、色々考えられる。面倒になり、電話帳に載ってるプロバイダに電話する。

しかし、まったく会話にならなかった。

「sorry」の連発の後、最後の「sorry」で電話を切ってしまった。

ネットにつなげられるのは、いつなのか、、、。


8月15日(日)

英語の練習など、のんびり過ごす。

昼ごろ、アパートのプールにつかる。

プールにつかるとは、変な表現だ。

つまり、動くと疲れるので浮き輪でプカプカしてただけだ。

10分ほどであきる。

移植を待つ患者アパートにプールがあるのだ。

患者の家族のためだろうが、必要か?必要だと思う。ダラスは暑い!

テキサスの荒野にある、メトロポリタン都市。暑くて死者もでるような所だ。

もちろん建物に入れば、どこいってもクーラーがきいてる。これがまた、寒い!寒すぎる!!

震えるほど、ガンガン空調をきかせている。暑いか寒いかと、アメリカらしく大胆で極端だ。


8月16日(月)

朝からベイラーで、検査や説明。野村夫妻が車で迎えに来てくれる。9時から、患者を集めたオリエンテーションだ。

移植の順番待ちになるための説明や、その順番の決め方などだ。

オレは今、移植が適応かどうか検査している最中だ。東京では、適応でしょう。との見解だがベイラーではわからない。ここまで来て、移植はできませんじゃ洒落にならない。

野村さんは、10年前にベイラーで肝臓移植をしている。その時は、虫歯の有無も問題だったらしい。

この話しを聞いてから、急に不安になった。そしたら、オレなんか虫歯だらけだ。野村さんは「10年前とは違うから」というが、、、。

移植の順番は、病気の種類に関係ない。先天性の疾患やB型肝炎でも関係ない。アルコールによる肝硬変すら、移植の順番待ちに差別されない。

もちろん、アル中だったら、その治療を終えてからになるが。結局は、病気の進行度で決まるらしい。

 

ステータス 1  今すぐ肝臓が必要な人。再移植など。

ステータス 2A  余命で言えば一週間ほどか、ICUでなんとか生きてる人。

ステータス 2B  立って動ければ大抵ここ。余命は、神のみぞ知る。

ステータス 3  死にゃしないよ、まだ。家で、待機してなよ。そんな人。

 

かなり、簡単に説明しているが、もちろん、あらゆるデータをもとに検討される。

ユーノスという、臓器バンクの設定した基準があり、そのマニュアルはぶ厚い本である。

週に一度、判定会議があり、そこで全ては決められる。症状が悪化すればステータスもあがり、順番も繰り上がる。

患者のための、移植された者の心得や術後のケア、感染症などについて書かれたマニュアルも渡された。

これには、移植後、一生飲み続ける、免疫抑制剤の知識も書かれており、移植者にとっては、命のバイブルだ。

これを、毎日読んで、頭の中にたたき込んでくださいと言われる。もちろん、全部英語。しかも辞書には載ってないような専門の医学用語もある。

中学英語も満足にできないオレが、医学書の翻訳。大変な作業がこれから待っている。

血液検査は、日本でも何回したかわからない。やることは一緒だ。ただ、その量が半端じゃない。日本の10倍はとるだろうか。

日本の検査は、注射器で吸い取る感じだが、そんな甘いもんじゃない。献血みたいな管を差す。そこから、血を抜きまくる。

さすがに、移植を踏まえての血液検査だ。検査の種類や項目も多いのだろう。

今回も野村さんが通訳をしてくれた。お忙しいのに、ありがとうございます。

そして、今日で奥様のカリンさんと娘さんのユウカちゃんが日本へ帰国。

妻ともどもお世話になりました。また、日本で御会いできるのを楽しみに、

Thank you for everything.

See you again.


8月17日(火)

いよいよ検査も大詰め。内科の担当であるDr.Crippinによる診察だ。

彼がオレを移植適応か否か。適応なら移植順位は何番か?判定会議へプレゼンテーションしてくれる。

彼のプレゼンをもとに評議委員会が、その全てを決定する。

 

いくつかの問診を終える。先生の顔が険しくなった。

「これから移植のポイントを話します」

いよいよ、核心にせまる話しだ。

「移植とは待つということです。数ケ月かもしれないし、それは、一年超えるかも知れないし」

先生がいうには、見た感じでは調子はよさそうだという。ただ、血液検査の結果が手許にないので、それだけでは判断できないが、と付け加えた。

「ラミブジンは飲んでますか?」

これは、B型肝炎ウイルスに効く薬だ。オレは5月の中頃から飲んでいる。

「Good!」

それが、功をそうしているらしい。

実際、オレは今、HBe抗原は陰性だ。簡単に言えば、ウイルスが体に悪さをしていない状態だ。調子が良いのも、そのせいかも知れない。

先生がラミブジンの効果について説明してくれる。患者の中には、肝臓の機能が回復してしまった例もあるという。

ラミブジンで症状の悪化を押さえて待機する。先生の話しを聞いていると、一年くらいは持ちそうなきになる。

もし待機中に、ラミブジンで完璧に治癒するような奇跡がおこれば、それは歓迎すべきことだ。

オレの場合、いっきに肝臓にダメージを与えたのが静脈瘤破裂だ。

これは、B型肝炎は関係ない。ラミブジンも効果はない。肝硬変である限り、治療しても処置しても出来つづける。

東京に帰って順番を待つ。それも選択枝に入るとしても、考えてしまうのはそこだ。今度、静脈瘤が破裂したら終わりだろう。

瀕死の状態では、通常の航空会社は乗せてくれない。飛行機をチャーターである。医師も5、6人はついていくことになるだろう。

それだけで、一千万は費用がかかる。

先生に、渡米前に見てもらった内視鏡の写真を渡す。数カ月後には、一人前の静脈瘤に成長するだろう箇所がある。

* 3月の末(破裂)

* 6月の中旬(破裂)

* 7月の頭(危険なものを処置)

と、破裂も含めて、処置してもすぐ静脈瘤が成長してしまう。オレとしては、これが一番の心配だ。先生も、すぐに内視鏡の検査と処置をしてくれると約束してくれる。

処置の場合、どれくらい入院するのか聞いた。

先生は驚いたように、

「入院なんかしないよ」と言う。

「じゃ食事なんかも、自分で管理するんですか。何日くらい禁食ですか?」

「まあ初日は、柔らかいものを食べて、翌日からは普通でいいよ」

驚きの答えである。日本では考えられない。

日本で処置したら、当日をいれて3日は禁食であろう。点滴で栄養を入れるだけ。

そして流動食から始まり、3分がゆ5分がゆ、とおかゆが上がってゆく。

「先生、日本じゃ考えられませんよ。平気なんですか?」

「結構、平気みたいよ」

Dr.Crippinは、本当にそう答えた。

日本のほうが、万全に対処するという感じで安心だが、退院する頃には、めっきり体力は落ちて、病人らしさを増してしまう。

処置とは危険を回避するためのもので、歓迎すべきことなのに、

「あーまた入院か、また点滴の毎日かぁ」と憂鬱になる。

しかし、アメリカ式なら、そうナーバスになることもない。

気軽に治療して、その日のうちに家に帰れる。どちらが、良いとか正しいかは分からない。

ただ、日本では憂鬱な処置が、アメリカでは深刻に考えることもない、注射程度の処置に思える。

Dr.Crippinが言う。

明日、判定会議があると。

渡米後からの、慌ただしい検査や説明は、明日の会議に間に合わせるためだったのだ。

スタート地点には立てた、後は銃声の音が鳴る事を祈るだけだ。

Dr.Crippinの診察は午後3時からだった。

スケジュールを見れば、次ぎの検査は夜の7時30分にMRIだ。検査だけなら、それほど面倒な会話もない。野村さんにも自分の仕事や予定がある、今日はここで、別れた。

7時30分まで時間があるので、いちど帰宅。

すると電話が。

電話の相手はベイラーの誰からしいのだが、何を言ってるの全然わからない。相手もそれを察して、ゆっくり話してくれる。

それでも、わからないものは、解らない。

しょうがないから、相手が「OK?」と聞くので。

全然OKじゃないが、OKした。

夜になって検査に行く。これが大変だった。磁気を利用した検査なのだが、検査の前にアンケートを書かなくてはならない。

まず、ここでつまずいた。

ちょっと、待っててと受け付けにいると、こういう問題を対応する部署の人が現れた。

電話を片手に持っている。これで、日本に電話して通訳してもらうんだ。

などと言っている、、、、、らしい。

なにやら、大変な事態になっている。

一時間半、待たされる。

別室に案内され、電話での通訳で会話する。

検査の説明もあるし、明日、日本語の話せる通訳を派遣するので、今日の検査はなしにするという。

それは困る。

判定会議は明日だ、それに、野村さんというお世話になってる人がいると説明する。

結局、野村さんに緊急で連絡をとり、明日のことを、検査の担当の人と電話で打ち合わせてもらう。明日、朝はやくに検査することが決まる。

しかし、困ったもんだ。

野村さんがいなくなったとたん、コミュニケーションのレベルが赤ちゃん並になってしまうなんて。


8月18日(水)

今日は、判定会議の日だ。11日の渡米も、全てが、この日に間に合わせるためだった。

とにかく、MRIの検査である。

CTの検査は体を輪切りにした、断面画像だが。この検査は、磁気を利用して、臓器を任意の断層画像を得られる。

検査の前に、チェック項目がある。

全ては、金属に関するものだ。心臓にペースメーカーはないか?手術後のクリップなど、何項目も質問を受ける。

それを、違う検査技師相手にもう一度行う。注射のために、点滴用の針を刺す。

後は検査だ。

ベッドで横になると、円筒状のトンネルが動き。オレの体を飲みこんでいく。後は、息を吸って、止めての繰り返しだ。

ただ、これだけのことで、昨日は大騒ぎになっていた。言葉が通じないハンデの重さを実感する。

検査が終わると、今日は移植医との面談だ。医師の名前はDr.ファソーラ、南米チリ出身だ。

こちらの通訳は、もちろん野村さん。問診の内容は、昨日のDr.Crippinと一緒だった。

そして、移植の話しも一緒だ。

「移植とは、待つことです」

アメリカでも深刻なドナー不足なのだ。結局は、時間との戦いらしい。

しかし彼は、待機時間を少なくするため、二つの選択を用意していた。

一つは分割移植。肝臓を二人に移植する方法だ。子供には小さい方を、大人には大きい方を移植する。

肝臓は、再生能力を持った臓器である。

しばらくすれば、普通の大きさに成長する。この、分割移植をOKすれば、多少順番がくるのが早いという。

この可能性は、東京にいるときに聞かされていた。別に悩むほどの事もない。OKである。

少し話しがそれる。日本では、長い間、脳死移植ができなかった。そのため、苦肉の索として生まれたのが生体肝移植だ。家族の肝臓の一部を、肝臓患者に移植する。

今、この技術がアメリカで、脳死肝臓の分割移植として取り入れられている。

ちなみに、東大では脳死移植はしていない。この生体肝移植のみである。

成功率も100%。多くの命が助かっている。オレも、一度はこの可能性を探った、家族に肝臓の適応者がいなかった。

今回の渡米の橋渡しをしてくれた東大の主治医の先生も、この生体肝移植の外科医である。

アメリカ人には抵抗ある分割移植でも、こちらには問題ない。

そして、もう一つ。B型肝炎キャリアであるドナーからの、肝臓移植である。これは、聞いたことがなかったので驚いた。

病気の発症していない。肝機能正常の肝臓を移植するのだ。ただ、肝臓内にはウイルスは存在している。へたにウイルスの量を増やすだけなのでは?

いろいろと疑問や不安が残る提案だ。

こういった移植はC型肝炎のドナーとレシピエントでは行われている。ベイラーにも、その移植結果のデータがあるという。

ノーマルな肝臓を移植した場合と結果は同じだそうだ。

では、B型は?といえばデータがないのだ。ますます、疑問と不安がつのる。その答えはすぐには、だせそうもない。

アメリカ人にB型肝炎は少ない。大抵がC型である。ベイラーの待機の中にB型肝炎はオレ一人である。

2週間前にも、B型キャリアのドナーが現れたののだが、レシピエントが合わず、他の地区に回されたそうだ。

B型キャリアのドナーは、B型肝炎のレシピエントにしか提供できない。この条件をOKすれば、B型キャリアのドナーがでた場合の順番は一番である。

実際に、そういう移植はすでに行われているという話しだ。

しかし、である。

とりあえず、こちらも情報を収集しなくちゃ。そう考えていると、先生との会話を続けていた野村さんが、驚きの声をあげた。

どうしたんですか?とたずねると、

「今、その条件のドナーがいるんだそうだ」

最初は、なんのことかわからなかった。

「今って、今ですか?」

野村さんが先生に再度確認する。

「今だって。もし手術するなら、これからすぐ手術の用意をすると言ってる」

オレも妻もパニックである。あまりにも急すぎる。心の準備は、すでにできてる。手術なんて恐くない。

そう思っていた。

全然、準備不足だった。慌てふためき、冷静な判断ができない。しかも、こちらには情報の少ない、不安の残る移植だ。

答えは急がなくていいからとDr.ファソーラは出ていった。彼も判定会議に出席するのだ。

この後に、予定されていた栄養士との面談をキャンセルした。それどころではない。もしかしたら、ものすごいチャンスなのかも知れない。

東大の主治医の先生に相談しようにも、日本は朝の4時くらいだろうか。

今、このベイラーで研修している日本人の医師がいる。丸橋先生と言い、東大の主治医の先生の後輩だ。

彼に相談しよう、ということになり、アポなしで突然来訪した。彼も、そのドナーの存在には驚いていた。

ドナーの担当は、今週はDr.ファソーラだという。移植グループはいくつかあって、丸橋先生はオレのチームだ。

B肝キャリアのドナーからの移植について聞いてみた。彼も、ベイラーでは、まだデータがでていないのでわからないと言う。

ただ、中途半端な移植は絶対にしないはずだという。とりあえず、僕も確認してきますと、丸橋先生がDr.ファソーラのもとに走っていった。

心は揺れる。

例え安全だとしても、大変な手術だ。成田空港でのヒロタカの顔が浮かぶ。あれが、今生の別れになったらどうしよう。そんな弱きな気持ちが顔をだす。

その反面、いきなり移植して、みんなをビックリさせようなんて、いたずら心も騒ぎだす。

気持ちは、移植にかたむきかけていた。

そこへ、丸橋先生が帰ってきた。

「わかりました。彼がいいたかったのは『if』の話しですよ」

みな混乱している。そこへ、またもや『?』である。

「ファソーラ先生、チリから来たばかりで」

つまり、英語の表現での取り違えだったらしい。

そして、丸橋先生はこう続ける。

「萩原さん、待機リストにのりましたよ。ステータス2Bです」

「あっ、そうですか」

一番気になっていたこと。

リストにのれば、またハードルを一つ飛び越えられる。

嬉しい報告のはずなのに、なんだか力が抜ける。

野村さんも、

「じゃあ、次ぎはソーシャルワーカーとの面談です。いきましょう」

声に力がない。

なんか納得のいかない結末であった。

ソーシャルワーカーとは生活面の相談やケアをしてくれる人だ。

真面目そうなおばさんで、アメリカ人には、珍しく体が細い。

彼女は挨拶の後こう言った。

「残念ながら、Twice Blessed House 2(アパート名)は満杯です」

彼女の言った言葉を簡単に整理すると。

日本に帰るか、この近くにアパートを借りるしかありません。私は、その辺の事情に詳しくないので、国際部の人間に相談して下さい。

「今のTwice Blessed House 1にいるわけにはいかないんでしょうか?」

「無理です。1は移植のための検査を受けに来た人のためのアパートで、次ぎの人達が待ってますから。では、質問を始めます」

オレはキレタ。

馬鹿にするのもいい加減にしろ!

今すぐ移植ができますと言われ、動揺させられ、今度は住むところはありませんだ。

隣を見ると、妻が涙ぐんでいる。

オレは、ベイラーは素晴らしい所だと聞いていた。患者のために、誰もが万全を尽してくれると思っていた。誰もがいってた。Dr.Crippinも。

移植を待つのは辛いけど、Twice Blessed House 2は快適なところだよ。

移植リストにのれば、そちらに移れるから。

Twice Blessed Houseの担当の人も面談で言っていた。遠方から来てる方は、移植がきまればTwice Blessed House 2に移ります。

あれは、嘘か!

人をアメリカまで来させて笑い者にしようとしてたのか。

今すぐ、移植の用意をするだ!

オレ達の慌てぶりは、さぞ最高なコメディーだったろ。みんなして馬鹿にしやがって。

野宿でもなんでもして待つ!そして移植を待つ!絶対、移植を成功させて帰る!

泣きながら、叫んでいた。

ソーシャルワーカーも慌てて、じゃあ、とにかくアパートを探すために連絡します。と受話器をあげた。

「今、調べてもらってますから」

しらけきった空気がオフィスを支配する。

もう、会話などなかった。

 

どれくらい時間がたったろう。そこに現れたのは、経理担当のビクトリアさんだ。

彼女は、野村さん夫妻の親友である。オレ達のことを、どこかで聞いてやってきたのだ。

「大丈夫、心配しないで。Twice Blessed House 1に住んでいていいから」

ここに来る前、その許可もとってきてくれたそうだ。

ありがたくて、涙がでてくる。

とりあえず、野宿は回避できた。

ソーシャルワーカーもホッとしている。

彼女としたら、当然の仕事をしているだけだった。マニュアルとしては、間違ったことはしていないだろう。

ただ、人にはそれぞれ事情がある。

それを、マニュアルに瞬時に組み入れて、相手の立場に立つのがソーシャルワーカーだろう。

ソーシャルワーカーとの面談は、生活面や心のケアのためのものだった。

こちらの、事情を知ってからでも、住むところの話しはできたはずだ。

ダラスにきて、最悪の一日だった。

リストにのった喜びは、半減どころか、溶解していた。

とりあえず、彼女とは和解し、メールアドレスの交換をした。電話だと、ヒアリングオンリーなので、まず理解できない。文章なら、辞書があれば、ゆっくり訳せる。

昨日の電話は、コーディネーターのブレンダさんだった。

内視鏡の検査と、処置の日時が決まったので、その連絡だった。彼女にも、メールアドレスを渡してきた。

夜、東大の主治医の先生に、B肝キャリアのドナーからの、肝臓移植はどうなんでしょうか?とのメールを出す。

ついでにメールチェックをすると、ソーシャルワーカーのMs.リッキーからメールがきていた。

とりあえず、リストにのれた。

慌ただしい毎日だったが、これで一段落である。


8月19日(木)

栄養士との面談。本当なら昨日のスケジュールだ。

それが『驚愕!緊急移植にハギ、ドッキリ』という訳で、そろどころではなく、面談をキャンセルしたのだ。

栄養士さんの話しは、主に食事療法。

肝臓病には高タンパク食が良い。

よく耳にするが、肝硬変も非代償期(肝臓が正常に機能してない状態)になると、逆である。低タンパク食になる。

食事で摂取したタンパクは、最終的にアンモニアになる。

これが肝臓で解毒されれば問題ない。しかし、非代償期では、その機能も落ちている。

そして、血中に残ったアンモニアは脳にまわり、肝性脳症をひき起こす。

肝性脳症の症状は、簡単にいえば、ボケ老人のようになるのだ。そして、昏睡から深昏睡。そのまま、目が覚めなければ、人生にさようならだ。

食事療法も立派に治療。とても大事なのだ。オレの場合は低タンパク、塩分制限などが主だが、低タンパクが困るのだ。

全ての食物には、タンパクが含まれる。

基準になるタンパク量を超えないように、バランスよく栄養をとる必要がある。

肉などはタンパクが多い。

食べたとしても、親指と人差し指で丸をつくった程度の量しかない。

野菜はタンパクが少なく、ビタミンも豊富だ。自然と、野菜中心の食事にならざるおえない。

オレは野菜が嫌いだ。

東京で入院中、病院食は野菜ばかり。しかも、薄味。それでも、これからの為に、

「オレは野菜が好きだ。あーうまいナスだ。このカブ最高!」

と自己暗示にかけた。

その努力もあり野菜人生を送る覚悟もできていた。妻も色々工夫して、料理をつくってくれる。

そして、今回の面談。

料理をつくる妻にとっては、聞きたい事が山ほどある。

アメリカの野菜は日本と違う。種類は一緒でも、大きさが違うのだ。とにかく馬鹿でかい。それに調味料も、日本と一緒という訳にもいかない。その他、色々と質問があるはずだ。

面談が始まった。

幾つかの、質問があり、本題の食事の話しになった。

「今は、どんな食事をしてますか?」

栄養士さんが聞く。

オレは、上記に書いたような事を話した。

すると、彼女はこんな事を言うのだ。

「もう制限するのはやめましょう。好きなものを食べて下さい」

一瞬の沈黙があった。

オレはもう一度聞き直す。

「とにかく栄養のあるものを食べましょう」

爆弾発言が飛び出した。今さら冗談ではすまされない。頭の中で、カレーライスやうなぎの蒲焼きがクルクル回る。

「一日、最低でも、手の平だいの肉を、2枚食べましょう」

そして、ここでもコーラが推奨される。もちろんコーラに薬効はない。アメリカ人にとって、コーラは日本の緑茶みたいなものだ。

「ただ、ダイエットコーラはいけません」

なぜ、同じコーラでもダイエットコーラはいけないのか?健康的でいいではないか、と思う人もいるかも知れない。

それは違うのだ。

確かに、アメリカでは肥満が問題になっている。だがオレは、アメリカへダイエットにきたわけではない。8~10時間におよぶ、移植手術を受けにきたのだ。手術にそなえて、スタミナをつけなければならない。

それに、コーラには糖分がたくさん入ってる。糖分はそくエネルギーになる。

もちろん気をつけなければいけないものもある。腹水をためないために塩分を控えることだ。

これさえ気をつければ大丈夫。何を食べてもいいのだ。

しかし、これには驚いた。日本での、野菜攻めはなんだったのか?ダラスにくる飛行機の機内食も、スーパーベジタリアンコースだったのだ。

彼女の話しは続く。

「これから移植手術をするのだから、体力をつけなければいけない」

食事制限して、か細い体になるより、ちゃんと食事をとり体力をつけてた方が、術後の経過が順調に行くらしい。

脳症の心配もないという。

「ほんとに平気ですか?」

と問いただすと、彼女は笑いながら、

「大丈夫」という。

オレが思うに、この「大丈夫」は、

多少の脳症が起きたところで、死にやしないよ。大丈夫。だと思う。

まあ、いい。

今すぐにでも、うまいラーメンでも食べにいきたいところだ。しかし、悲しいかなここはアメリカだった。

帰りに、コーディネーターの、ブレンダさんに会いに行く。彼女の役割は、いわばマネージャーみたいのものだ。

彼女に、昨日の移植の条件は全てOKだと、伝える。ドクターに伝えて下さいとお願いしておく。

「それなら、早速ポケベルが必要ね、手配しておきます」

移植待機者はドナーが現れると、ポケベルで呼び出されるのだ。普通の順番待ちなら、まだポケベルは持たされないだろう。

そして、彼女が続ける。

「Twice Blessed House 2が空いたから、今日の午後から入れ

るわよ」

みな、キョトンとしている。

いきなり空いた?

昨日の大騒ぎはなんだったんだろう?

かなり疑問が残るが、まあいいや、移れるなら。

野村さんと相談した結果、引っ越しは明日の夕方にする。


8月20日(金)

夕方引っ越し。カリンさんのお父さんが手伝ってくれる。

Twice Blessed House 2は、長期滞在者用のアパートだ。

ベッドルーム、リビングルーム、キッチン。おまけに暖炉までついている。東京のボロアパートとは天と地との差だ。

引っ越しが終わると、野村さんもやってくる。今夜はカリンさんのお父さんが、ダラスのレストランで御馳走してくれるという。

丸橋先生と奥様も合流するという。

オレは久しぶりに、肉を山ほど食べた。妻はキャットフィッシュ。キャットフィッシュとは、なまずです。ダラスでは、非常にポピュラーな魚料理だそうだ。

食事中の会話で、大変な事が一つわかったので、ここに付け加える。野村さんは火曜に帰国らしい。

これから大変だ。


8月21日(土)

静脈瘤の予防的処置。これは、内視鏡を使っておこなわれる。まず、日本での内視鏡(胃カメラ)を飲む段取りを説明しよう。

1 麻酔の効果のあるゼリーを飲み込み、のどで止めておく。

2 胃の緊張をとる注射を打つ

3 のどにスプレーで麻酔をふきつけられる。

以上の後、口にマウスピースを加えて、そこから、親指くらいの太さのカメラを入れる。はい終了で、みな普通に歩いて帰る。

どうしても飲み込めない人の場合、精神安定剤の注射で、緊張をとる。(オレは必ず、これを打ってもらっていた)

尚、病院によっては、段取りの違う事があるのは当然である。

病院によっては、、、、、、、、、、、、。

アメリカの病院は大げさだ。

まず点滴、これは睡眠効果のある麻酔だ。注射ではない、点滴だ。それで、ウトウトするのを待つ。

腕には血圧計、脈拍を計る機器がつけられる。それが一定の間隔で、ナースにデータを送る。

万全の体制を整えてくれるのか、すごいなと感心していたら、鼻の穴にチューブを入れられた。

なんと酸素吸入までするのだ。

腕には点滴、脈拍に血圧を管理され、鼻から酸素吸入だ。日本の病院で、こんな姿なら重症患者である。

処置してくれるドクターが登場する。

Dr.Crippinも現れる。

そして、今度は注射を点滴の管から注入される。とどめに、のどへのスプレーだ。これが、苦いのなんの。

処置そのものは、10分ほどで終わる。オレの意識はボーッとしている。ベットで横になり半覚醒状態。

どれくらいたったろうか。

大丈夫か?帰れるか?と看護婦に尋ねられる。

「イエス」とオレ。

じゃあ起きて、とベットの上に座った状態にされる。のどは痛くないか?ちゃんと飲み込みができるかテストされる。

「何飲む?水?紅茶?コーラ?」

オレはコーラを頼んだ。

日本では信じられないことだ。処置後のテストのために、コーラが選択枝に入る。日本では、有無もいわさず水であろう。

看護婦から、今日は柔らかい食べ物、明日からは特に気にすることはないとの説明がある。

日本では、処置後は当日を入れて3日は禁食だ。

家に帰ってくる。麻酔がきいてるのかやけに眠い。結局、午後2時から、翌日の朝まで、ほとんど寝つづけた。


8月22日(日)

朝、近所を散歩する。かなり治安の悪そうな雰囲気だ。浮浪者はいるわ、ビールの空きビンがいたるところに転がる。

ただ、テキサスの古いたたずまいの繁華街は映画のワンシーンのようだ。

午後は、ボランティアの人が、買い物に連れていってくれる。Twice Blessed House 2では、車のない人のため定期的に、スーパーなどに連れていってくれる。

今日はボランティアの人が、日本の東急ハンズみたいなところに連れていってくれた。

お店の一画に子供がたむろしている。なんだと思ったら、ポケモンカードが売っていた。

こっちでも大人気なのだ。

実用的な買い物はできないが、見ているだけで、楽しかった。深夜、眠れないので、妻と二人で駐車場の屋上から、ダラスのダウンタウンの夜景を眺める。

ウーン素晴らしい、キレイだ。などと二人して唸っていると、ベイラーからバリバリバリとヘリの音が聞こえる。

慌てて、音のする夜空を見上げると、ヘリが飛び立っていった。ドナーの臓器を取りにいくのだろうか?

ドナーの臓器摘出は深夜に行われ、移植手術は朝から始まると、丸橋先生がいっていた。

深夜にドナーの臓器摘出、朝から手術、手術には8時間からかかるらしい。移植医師はハードな職業だ。

しかも、丸橋さんに聞いたら、公休は月に2日だけだという。ごくろう様です。


8月23日(月)

今日はスーパーへの買い出しバスの出る日だ。アメリカ人は一週間分くらい買いためする。とにかく食料品は安い。

オレ達は、車がないので、買い出しの日をのがすと、痛い目にあう。餓死する危険もある。

買い出しから帰ってくると野村さんが、やってきた。さっきまで、ベイラーに行っていたという。

これから、オレに関わる人達に会い、

「よろしくお願いします」

と頼んできたという。

最後の最後まで、お世話になりっぱなしである。

 

野村さんは、明日帰国する。

今回は、ほんとうにありがとうございました。

 

ベイラーで移植手術をした最初の日本人、野村さん。僕も、二人目の日本人になれるよう頑張ります。

I’ll be back to Japan from twice blessed.


8月24日(水)

なんか、腹の調子が悪い。気のせいかも知れないが、胃に圧迫感もあり、ときに吐き気をもようす。

確かに、栄養士さんに、肉でもコーラでもOKといわれた。喜びのあまりオレは、自分を忘れていた。

そうだった、オレはもともと健康なときから、ステーキ肉は好きじゃなかった。炭酸飲料も、大人になってからは、ごくまれに飲むくらいだ。

アメリカ人は肉を食べないと、食事したことにならないらしい。しかも、噛むと歯がうもれるような、分厚い肉じゃなくてはいけないという。

スーパーにいくと、肉が信じられない安さで塊ごと売ってる。スライスされてるものでも、かなり分厚い。そんな普段、食いなれないものを食えば、胃がもたれるのは当たり前だ。

考えてみれば、アメリカ人と体格も違う。食文化だって違うのだ。何も無理して、分厚いステーキを毎日食べる必要はない。

メールをチェックする。すると、そこに英文が。コーディネータのブレンダさんだ。

ベイラーでオレに関わる人には、全てメアドを教えてある。重要な用件は、メールで送ってもらうためだ。

一度、ブレンダさんから電話があった。何言ってるか、まったくわからなかった。メールなら、じっくり辞書で訳すことができる。

Dr Crippinの外来のスケジュールだった。

夜、移植患者マニュアルの翻訳にとりかかる。とりあえず、目次だけなんとか訳す。


8月25日(水)

ダラスに住んでいて、車がないのは致命的である。毎日、気温が40度を超えるところだ。歩いて、買い物なんてできない。

というより、この辺にはスーパーがない。

今日は患者アパートが、バスを出してくれて、大型量販店にいく日だ。何がどう大型量販店か興味もあり、出かけることにする。

集合はアパートの正面入り口に朝8時だ。

買い物にいく時間じゃないよなー、などと妻と世間話しをしていると、車が止まった。目的地についたらしい。

と思ったら、もとの患者アパートである。

車が故障して帰ってきてしまった。

今日の買い物は、中止かなと思っていたら。親切なオバサンが、連れていってくれるという。

言葉は通じなくても、面と向かって話すと、なんとかコミュニケーションがとれる。

着いたところは、日本でいう雑貨や洋品が売ってるような、巨大なストアー。日本のデパートが縱に高いとすれば、アメリカのデパートは横に広い。

そんな感じ。

買い物も済まし、午前11時からは、移植者のためのサポートミーティング。患者とその家族のためのサポートであると聞いている。

妻と二人で参加する事にした。

英語なので、何もしゃべれない、わからない、は覚悟の上だ。会議室前の廊下につくと、サポートグループの人がいた。

どちらが患者か聞かれる。

オレは「ハイ」と手をあげる。じゃ、こちらの部屋ですと案内される。

妻も、その後についてくる、すると、

「家族の方はこちらの部屋です」

と連れていかれてしまった。

このサポートミーティング。最初の自己紹介には、しっかりと参加した。その後は、静かに沈黙を守る人になってしまった。

妻も、似たような状況だったらしく。じっと動かず、ただ黙っていたそうだ。

「あなたは、お人形さんみたね」

と言われたそうだ。


8月26日(木)

今日は、一日中ずっと、患者マニュアルを訳していた。

ちなみに、オレの最終学歴は工業高校電気科卒だ。電気工事に英語はいらない、とでも思ったのか。

英語の授業は、一年生の時にしかなかった。中学英語も、まったく忘れている。

単語は辞書があるからいいが、長い文章は、どこがどう関係しているかわからなくなる。言葉の繋ぎ方しだいで、逆の意味にもなってしまう。それに、医学的な専門用語まで入ってくる。

一つの文書を、訳すのに、何時間もかかってしまう。これは大変な作業だと気づく。医学書一冊、翻訳するのだ。

改めて気付いた。杉田玄白は偉い!!


8月27日(金)

続くときには、つづくもんだと、教えられた日だった。

初めに、アパートをノックする音を耳にしたのは午前中だった。誰だろうと、防犯用の除き穴から見ると、見知らぬ白人男性がいる。そして、その傍らには、奥さんと子供だろうか。

どちらさまでしょうか?と扉をあけると、

「まさひとさんですか?はじめまして」

といきなり、日本語で挨拶された。

「私、水戸に10年住んでました。今、ダラスに住んでます」

どこかの日本人贔屓の外人が、オレの事を知ってやってきたのか?

そんな、ことではなかった。押野先生からのはからいだったのだ。

オレは子供の頃、教会の日曜学校に通っていた。日曜学校とは、子供のための、礼拝だ。

肩苦しい雰囲気は微塵もない。ほとんど、遊びにいく気分で通っていた。この教会の牧師さんが、押野先生だ。

今日来てくれた方は、ヘリングさんと言う。水戸の教会で牧師をしていたが、今はダラスの教会にいる。

ヘリングさんの奥様が、妻と話している。

「今度、日本食のお店にいきましょう」

妻も、喜んでその誘いにのっている。

「じゃあ、ぜひ今度」

という答えは、日本での一般的な返答だ。アメリカでは、それは通用しない。さっそく、日取りを決める相談を、ヘリングさんが持ちかける。

こちらは、「いつでも、いいんですが、、、」

とグズグズしている。

すると、奥様がの提案で30日。

「3日後に行きましょう」と話しがまとまった。

次ぎの訪問は、午後だった。訪れたのは、丸橋先生だ。

「野村さんが帰って、困ってるんじゃないかと思い来てみました」

「まあ、どうぞ奥に座って下さい」

ソファを進める。

「いや、仕事の途中で、すぐに戻らなくちゃいけないんですよ」

移植医師は忙しい。

昨日も、腎臓、肝臓あわせると7、8件の移植があったらしい。

丸橋先生が続ける。

「萩原さん、そろそろホームシックでしょう。日本食のお店に行きましょう」

日本食、第2段である。

それは、いいですね。などと日本風相づちを打ちつつ、ヘリングさんとの約束もあるし、などと考えていた。

「明日なら、午後、体あいてるんで行きましょう。じゃ明日連絡します」

2食目の日本食ツアーがここに決まる。

とどめは、夜に確認したメールだった。

ベイラーの経理のアリスンさんだ。彼女は、オレ達が野宿の危機にさらされた時、突然現れ助けてくれた人だ。

野村さんと個人的にも友人で、野村さんも帰国の前に、

「萩原君の事、くれぐれもよろしく」とお願いしてくれたらしい。

彼女のメールをざっと、読む。

文章の中に『feelng home sick』『Japanese restaurants』

の文字が読みとれる。

文も正確には、わからずとも、ポイントさえつかめば、どんな内容かわかる。彼女も、日本食レストランに誘ってくれていた。


8月29日(土)

こっちの生活にも、かなりなれてきた。

今日の朝食は、トーストにジャムだ。日本でも、大抵それで済ませていた。しかし、今は違う。

その上にホイップクリームをたっぷりのせ、とどめに、こっちのブドウをトッピングする。ちなみに、果物だったらなんでもいい。

それをコーラで腹に流し込むのだ。とりあえず、カロリーはたっぷりとれるし、味も中々のものである。

今日の午後は、丸橋先生がダラスを案内してくれる。そして、日本食レストランだ。

丸橋先生が奥様と迎えに来てくれたのは、夕方4時だった。ダラスは陽が落ちるのが遅い。夕方4時でも、感覚的には日本の午後2時くらいか。

車に乗り込むと、いきなり丸橋先生が言う。

「ダラスは見るとこないんですよ」

そう言って、車が向かったのはダウンタウンだった。

患者アパートから見上げてたダラスの高層ビル群。今、その足もとを車で走ってる。

窓から流れ去る風景を見てるだけでも楽しめる。最初に到着したのは、牛の銅像がいっぱいあるところだった。

あるのは、それだけ。

「じゃあ、次ぎ行きましょう」

先生が車に向かう。奥様もその隣を歩いている。ダラスは、ほんとに、見るところのない街かも知れない。

いや、そんな事はない。

ケネディー記念館や、暗殺された場所。メジャーリーグの球場もあれば、アメリカンフットボールもある。

時期や季節があえば、ロディオ大会など、テキサスらしいイベントもある。

この後オレ達は、ダラスの古い街なみを再現したところ。(日本の日光江戸村みたいな感覚かな)

そして、ファーマーズマーケットと呼ばれる市場に行く。野菜市場なのだが、小売りもしている。

果物を少しばかり、買い込む。

そして、ホテルの展望台へ。

ダラスから、遠く地平線がかすんでみえる。見渡す限り、山もなく海もない。

貨物列車が、走ってる。長い車両だなと思いながらボーット見てた。

「ちょっと、あれ見てよ!」

妻が指を差す。

そこに、あったのも、貨物の車両。レールの上を動いてる。貨物列車の車両は、長いなんてもんじゃなかった。

100台くらい続いているのだ。

じゃあ、そろそろという事で、日本食レストランに向かう事にした。

ヘリングさんとの約束は連絡して、日本食のスーパーへの買い物にしてもらった。

着いたお店は、『ていてい』。すごい人気の店で、いつもお客さんで一杯だそうだ。

店内に入ると、テーブル席は満卓。カウンターに座る。メニューの文字が日本語なのが、嬉しい。

しかも、食事制限は、ほとんどなし。塩分にだけ気をつければ良い。寿司を注文する。

単品のメニューからは、コロッケ(絶品だった)、サンマ(最高の味だった)をオレは注文した。

妻はといえば、冷やし中華を頼んでいた。

「お飲物は、なんにしましょう?」

ドリンクメニューを眺める。

麦茶も、ウーロンチャもない。ましてや十六茶などあるはずもない。

ソフトドリンクの種類も、一つだけ。『ラムネ』。

味噌汁飲みながらのラムネは、うまいもんじゃない。久しぶりに患者であることを忘れた、一時だった。

夜、アパートの火災報知器がなる。うるさいのなんの。全然鳴り止まない。

アパートの住人がみな庭にでて文句をいっている。オレ達は、セキュリテーのボタンを押しまくった。

今度は、違う種類の警報装置が鳴り出した。

消防車から、パトカーまでくる騒ぎだ。数十分で、火災放置機の非常ベルは止まった。

みんな一安心である。安心できないのはオレ達だ。もう一種類のベルが止まらない。

制服を着てる人を捕まえてはCan ‘you help me!を連発してたら。

セキュリテーを管理している人達が来てくれた。どうやらオレ達は、侵入者用の警報装置を作動させてしまったらしい。

解除する暗唱番号を知ってるか?と聞く。

I don’t knowである。

セキュリテーの人も困ってしまった。敵当に押してみる。

『1111』『2222』~『1234』

ベルの音がやむ。ビンゴ!である。解除の暗証番号は1234。

あまりにも、単純すぎるパスワードだった。


8月29日(日)

なにもない、一日だった。しかし、のんびりと日曜日を楽しんでいたわけではない。

「肝臓移植マニュアルを訳さなきゃ!」

「今すぐにでも、英会話を完璧にしなければ!!」

気持ちだけが走ってる。猛ダッシュだ。

ただ、足がついていかないのだ。イエスタディーのスペルすら解らない。


8月30日(月)

朝の5時に電話のベルで叩き起こされる。妻が隣のベットで寝ている。

オレの方が確実に、最初に起きていたと思うが、面倒なのでほっておく。

妻が、飛び起きた。

「はい、はい、はい、はい」と、リビングの電話へ走っていく。

彼女が、受話器を取る。オレは耳を済ます。妻が片言の英語を話しだし、しどろもどろになったら、このままタヌキ眠りだ。

「hello」と彼女。

しばらくの沈黙の後、

「ヒロクーン、こっちは、朝の5時よまだー」

息子のヒロタカからの電話らしい。オレもベットから、飛び出す。ちょっとだけ、世間話し。

 

それじゃあ、もう少し寝るかとベットに入る。何時頃だろう、また電話があった。ヘリングさんの奥様からだった。

予定していた、日本の食料品の店への買い出しが中止になる。

急な用事が入ったとの事だ。買い物は、木曜日に変更された。今日も一日、なにもすることはない。

日本から、遠く離れて暮らす。文章でのやりとりは、エアメールでも5~7日かかる。

やはり、インターネットはすごい。『今』だしたメールが、『もう』ついている。

日本にいた頃は、パソコンを目のかたきにしていた妻も、こちらに来てからメールを始めた。

メールチェックは、一日の中での大きな楽しみになってる。

それが、オレの場合はそうでもないのだ。オレのメールアドレスは、ベイラーとの連絡用にもなっている。

メールをチェック。

もし、そこに、英文のメールがあったら、そこからは Study Englishだ。

「後でやるから、いいや」は、許されない。

命にかかわる緊急の用事かも知れないのだ。英文を訳すのも、命がけである。

 

今日、メールをチェックしたら、ヤフーからきていた。

「ヤフーの新着情報、今日のおすすめに載せました」という。

はたして、何人の人がこのHPを見てくれるだろう。

「無理してHPの更新して、体に悪いんじゃない?」と心配する人がいる。

歩くほどには、疲れず、気分転換にもなる。それに、芸人ハギとして残される、外に向けた、最終表現手段である。


8月31日(火)

アメリカでは電話料金が安い。市内局番であれば、かけ放題で、料金は基本料に含まれている。

このアパートの部屋にも最初から電話があった。家賃には電話の基本料金が含まれている。

うっとおしい電話料金の請求書も、ここにはこない。こうなると、感覚的には、市内電話は無料でかけ放題だ。

ただし、長電話をするほど仲の良い友人が、ダラスにいればの話しである。

やはり、電話で会話をする機会は国際電話が多くなる。

しかし、このアパートの電話からは、市外及び州外、国際電話はかけられない仕組みになっている。

国際電話をかける方法は一つ、国際テレカを使うしかないのだ。

使用した事ない人のために、簡単に説明すると。前払いで、カードを購入。

そのカードには、IDになる電話番号が書かれている。(日本の0120と一緒の無料電話局番)

そして、パスワードになる番号が、銀色のスクラッチで隠されて見えないようになっている。

購入後に、それをこすると数字がでてくる。ID変わりの電話にかけて、ガイダンスにしたがいパスワードを入力。

後は国番号、日本の電話番号の順番だ。

このテレカを買いに行くのも一苦労である。この近くで、国際テレカを売っているのは、セブンイレブンだ。

前の患者アパート(移植適応か検査中、滞在)からセブンイレブンまでは、5分ほどだった。

今のアパートは、ベイラーの敷地をまたいで反対側にある。セブンイレブンまで、徒歩で15分くらいになってしまった。

いや、ダラスの灼熱の中だと、ヘタりながらで20分はかかるだろう。それか、一歩外に出るだけで嫌になる。

最初は、ちょっと、歩いてくる。10分程度の散歩のつもりで部屋をでた。

ふと、ある事を思いだし、テレカが欲しくなった。ただ、20分、歩くのも辛い。

アパートの前の道は、ガストンストリートという。この道をまっすぐ、行くだけでセブンイレブンがある。そして、この道にはバスが走っている。

オレは、それに乗る事にした。

ちなみに、バスの乗車システムを、まったく知らない。

バス亭には『19』と『44』の数字が書かれている。どうやら2系統のバスが出ているらしい。

しばらくしてバスが来た。もう後戻りは出来ない。バスが止まった。

運転手側の前の扉が開く。

バスのステップを上ると、目の前にお金を入れる機械だ。

そこには、ローカル1$プレミアム2$と書かれている。

とりあえず、1$払って、椅子に座る。すると、運転手が何か言ってる。

何を言われてるのかわからないが、とにかく、すごそこまでだと、身ぶり手ぶり、片言の英語で話す。

運転手は納得したのか、切符を渡してくれる。改めて、椅子に座り、周りを見回す。

ビックリした。

「ハギに全員注目!」とでも号令があったかのごとく、視線がオレに集まっていた。

しかも、乗っているのは、ほとんど黒人、有色人種ばかり。

車社会のアメリカで、自家用車のない、低所得者層である。

みんな好奇な顔でこちらを見てる。しかし、恐怖を感じることはない。

だって、すぐそこまでだから。バスなら5分かからずセブンイレブンにつくだろう。

「あっ・・・・・・!」

バスの降り方がわからない。

そうだ、乗ったはいいが、どうすれば、目的地で降りれるのだ?

周りを見渡しても、ボタンもない。

「あっ・・・・・・!」

バスが曲がった!!。

このバスはガストンStを真直ぐ行くのではないのだ。

急に不安が押し寄せる。

すると、そこに救いの手が。

運転手のオジサンがまた何か話しかけてくる。

そして、バスをストップさせると、扉を開けた。

降りろと言っているらしい、お前は、直進したいのだろうと。

「Oh!yes!!」である。

降りたところは、ベイラーの敷地内だ。気持ちも萎えてしまい、帰宅する事にする。

しかし、どうしても、テレカがあきらめきれない。ベイラーでも売っていると聞いたのだが、受け付けの人の説明では理解できないのだ。

もう一度、チャレンジだ。

受け付けの黒人のオバチャンに、

「ベイラーの中で、国際テレカを売っているか?」たずねる。

答えは、売っている。が正解らしいのだが、その場所の説明が理解不能なのだ。

何度も、同じ事を繰り返すオバチャン。一生懸命、説明してくれている。それでも、オレには理解できない。

あまりにも、悪いので、

「ありがとう。心配しないで。帰ります」と片言の英語で話し、あ

きらめて帰ろうとした。

するとオバチャン、受け付けのブースから急に飛び出すと、オレの腕をつかんで、歩きだすではないか。何事か?と思ったら、なんと売り場まで案内してくれた。

オバチャンにサンキューを連発すると、彼女は何かそれに軽く答え、もとの仕事に戻っていった。

夕方の5時を待って、さっそく国際テレカを使った。

日本は9月1日の朝7時。

電話にでた、ヒロタカに、

「新しい学校で、頑張れよ!」

妻と二人でハッパをかけてやった。

大事な事を忘れてた。

Dr Crippinによる外来診療の日だった。

状態は、変わらずらしい。

通訳してくれたのは、丸橋先生だ。

血液検査をして帰る。

今回は、日本と同じくらいの量の採血であった。