1999年7月 栃木県庁記者会見

注意
これは1999年の日記のため、情報が古いです。また、医療情報についても素人患者の闘病記です。ご自身の健康に関しては、医療機関に相談してください。

7月4日(日)~7月9日(金)

土曜日に内視鏡の検査をした。

処置した箇所の治癒具合の検査で、その結果では5日には退院できそうな気配だった。

しかし、静脈瘤の発達がはやいということで、今回は、予防的な処置をする事になった。

また禁飲食である。点滴も24時間、ささりっぱなしである。

しっかり点滴が血管に刺ささっていて、血液に流れていれば、痛みはまったくないない。

ただ、この点滴が、血液からもれていると大変なことになる。腫れるは、痛いはである。

この点滴を差すのにも、上手下手がある。ベテランの看護婦さんは、さすがにうまい。

余談だが、看護婦さんには独特の口調があると思う。特に重篤の患者に対し、ものを言いい含める時に現われるのだが、はっきりした強い口調で、一定のトーンで話すのだ。

「は!ぎ!わ!ら!さん!。だ!め!で!す!よ!」

他の病院は違うのかも知れないが、、、。

流動食になったのは、3日後の6日からであった。点滴も完全にはずれた。

先生が、説明に来てくれる。

処置した所が完全に治癒したかは、外来で検査するとのこと。このまま、3分がゆから始まり、固いごはんまで上がれば退院だ。

予定では、土曜日である。

そして、退院後の薬を抱えて薬剤師さんがくる。入院の度にお世話になる薬剤師の野口さん。彼はマック使いだ。入院中、そして、退院後に飲む薬を、図解つきの書類でくれる。ファイルメーカーProで作成しているという。

患者としては、どんな薬を、なんの効果のために飲むのか知るのは大切だ。それを、とても見やすい書類にしてくれるので重宝している。


7月10日(土)

予定通り退院。

とりあえず、平穏な日々が続くことを祈る。久しぶりにHPをのぞく。こんなにも心配してもらっている事に感謝する。


7月11日(日)

昨日書き忘れたが、友人夫妻が自宅に見舞に来てくれた。

もともとは石井の友人だが、その縁で結婚式の司会をした。奥さんの妹さんは、腎臓移植の経験者だそうだ。

心のこもった、手紙を受け取る。

で、今日11日はその石井が彼女と見舞にきた。そして、もう一人、一緒に来たのは小林君だ。エッセイの『フォークシンガーだった頃』に登場する彼だ。

石井は飲み屋の女に振られ、前の彼女と元のさやに納まったらしい。


7月12日(月)

なにもしない一日でした。

ノートパソコンを使ってるんだが、バッテリが寿命。コードでつないで使用している、夜はもちろん抜いている。

夜中に予備電源まで使いはたすのか、起動するたび時間が遅れるのだ。しかも曜日まで違ってる。日付と曜日がずれてる。

ちなもに使用パソコンはMacintosh PowerBooK540cだ。CPUは2世代前の68kと呼ばれるものだ。


7月13日(火)

ヒロタカ、学校サボル。お腹が痛いといっていたが、元気そのもの。

雨なので、一日部屋に閉じこもっている。


7月14日(水)

夜中から何度か目をさました。何か夢を見ていたのだろう、気分が悪い。

まさか!の静脈瘤破裂?

慌ててトイレに駆けこむ、リキむがなにも出てこない。

もし黒い便が出たら、それはタール便といい。下血である。

便器に顔を突っ込んだ、何度か吐こうと試みるがでない。どうやら、静脈瘤破裂ではないらしい。

少し安心して眠る。

目が覚めたら、気分最悪。食欲ゼロ。どうしのかと熱をはかると39度もあった。

とにかく、薬をのむため、バナナを一かじりする。そして栄養剤。これは座薬しかない!と勝手に決めて、取り置きしてある薬をいれる。

夕方には熱は下がったが、胃の違和感はおさまらず。明日は東大病院に行く予定だが、この調子だとどうだろ?


7月15日(木)

妻が、パートを休んで病院まで付き添ってくれた。

外来の受け付けを済ませると、とりあえず採血室へとの指示だ。そこで、順番を待っていると、主治医の先生がわざわざ来てくれた。

募金の集まり具合などの近況報告をする。とにかく登録しないと、順番待ちもあるし。

今、手元に集まっているのは、具体的な数字はわからないが、500万くらいでしょうか。と先生に話すと、

「とりあえず、それだけ振り込んで、一度ダラスの先生にみて貰うのはどうかな」

通常、アメリカでは移植にはデポジットと言う、前金が必要だ。

先日、「30万ドル払ってくれ」とダラスの病院は言ってきた。

「残りは、後で払う事にして、もしかすると登録してくれるかも知れないし」

「前例はあるんですか?」

「ないけど、やるだけでもやってみましょう。登録してない期間は何もしてないのと一緒なんだから」

何事にも前向きな先生である。

先生は早速、ダラスにメールを送ってくれた。

2、3日中に返事がくるでしょうとのことだった。

そして、昨日の熱の話しをする。

肝臓が弱っていると、免疫機能もおちるので、普段ならなんでもない菌が胃で暴れる事があるのだそうだ。

抗生物質と胃薬を出してもらう。

先生は、この後、午後から名古屋で学会の発表があるそうだ。

家に帰ったら熱が上がっていた。妻は午後から、ヒロタカの保護者会だ。帰ってきたら、洗濯に炊事。

俺は布団の中で丸くなって、ウーンウーンとうなるだけ。

夜9時に座薬を入れ、睡眠薬を飲む。


7月16日(金)

熱も下がっている。

わりと調子もいい。今回の入院中のデータを少し整理しよう。

そんな気分も湧いてくる。


7月17日(土)

中学時代の友人のオガタが見舞いにきてくれる。

いつのまにかホームページまでつくってくれたらしい。

ヤンチャ坊主の印象ばかり強いので、彼がパソコンを打つ姿が想像できない。


7月18日(日)

妹夫婦、従姉妹の女番長よしこちゃん。妻の妹と、彼氏が家にくる。この後タイタンで、募金についての会議が行われるのだ。相方の河崎さんは、タイタンに直接行くといっていた。

俺は、家で留守番。

どんな話し合いになってるか気にかかる。

2時間くらいして、みんなが帰ってきた。

とりあえず実りある話し合いだったようだ。

なんてったって5000万円。色々みんなに迷惑をかけている。

みんな気持ちを一つにし、足並み揃え前へ進むのだ。


7月19日(月)

予期せぬ大物から見舞いの電話をもらう。なんと電話の先にいたのは『初恋の人』。

中学2年に出会い、高校を卒業するまで好きだった子だ。彼女から、妹のところに電話があった。それは聞いていた。俺の家にも電話くらいあるんじゃないかなと、予感はしていたのだが。

話しをしたは10年ぶり以上だ。時間の壁はまったく感じなかった。あの頃の様にトキメクかなと思ったが、さすがに、それはなかった。

募金を始めて一月くらいたつ。田舎の仲間は手探り状態で始めた。

通帳記帳に少しずつお金が増えていく。全て善意のお金だ。こんな俺のためにと思うと、、、、。

日曜日に、通帳を見せてもらった。胸が熱くなった。金額にではない、そこに見つける事のできる懐かしい名前にだ。

高校の担任も募金してくれていた。

俺は嫌われてるとばかり思ったのに。

時は流れ、遠く離れ、友と別れる。いつしか連絡は跡絶え、その存在は、思いでだけの物になる。手垢にまみれるほど、繰り返し懐かしんだ思いでもあれば。

埃にまみれて、色、形のわからなくなったものもある。

今回の病気で、そんな懐かしいブリキ細工が玩具箱から転げだした。

それは、幼い頃と変わらぬ動きで、僕の気持をなごませる。

ヒロタカが通知表を始めてもらってきた。

大切なのは、友人を裏切らない、強くて優しい心。


7月20日(火)

また、中学時代の友人が来訪してくれた。

女の子だが、仲間内では一番しっかりしていて、みんなのリーダーだった。男友達と話してるような気さくさで話せる奴なんだ。

フランスに在住で、ビザの更新でたまたまこちらに帰ってきていたらしい。

帰り際、俺が「じゃーな」と手を振ると、彼女も「じゃーな」と手を上げる。

夜中、腹痛。痛くて眠れない。一番嫌な奴が来た。

静脈瘤破裂じゃねーだろーな!!

布団の上に正座して吐き気を待つ。吐き気はないが、目茶苦茶、腹が痛い。

トイレにいったら茶色の軟便だ。破裂じゃないらしい。

不安と、痛みを抱えて必死に眠る。


7月21日(水)

河北の定期検診。

見た感じでは、目立った問題はない。

前回処置した、静脈瘤の予後もあり、31日、内視鏡検査の予約が入る。

午後、すごい雷。夕方、ずぶ濡れの妻が帰宅。ヒロタカは夏休みは、学童クラブだ。心配なので児童館に電話する。

すでに、雷もやみ、雨足も少し収まりかけてる。

クラブの傘を貸すので、それで帰るよう指導したという。しかし、ヒロタカはずぶ濡れで帰ってくる。

自分の分までなかったらしい。


7月22日(木)

東大病院に行く。

前回の検査を見ると、数字は確実に悪くなっている。

たとえ借金してでも登録しないと手遅れになる。それから、じっくり募金すればいいのだ。

とにかく、体勢を強化して募金活動をしているところだ。

友人や妹夫婦は一日睡眠2時間と聞いている。

このHPに来てくれている人も協力して頂いている。今、倒れるわけにはいかん!

先生は少しでも体調が維持できるよう、点滴を入れてくれる。来週からは、週2回通うことになった。


7月23日(金)

久しぶりに太田さんと電話で話す。午後、事務所で打ち合わせをするという。河崎さんも来るらしい。遊びに行く。

ヒロタカをつれてタイタンへ行く。打ち合わせの途中を邪魔してしまった。

仕事先の人に太田さんが、俺を紹介してくれる。

「こいつ、もうすぐ死ぬ、ハギ」

太田さんの毒舌で、会議室が、笑いに包まれる。

「そういう、紹介はないでしょう!」と俺。

相棒まで、調子にのって、俺の病気をネタに笑わせる。

「外熱かったろ。ハギ、何飲む?キリっと冷えた点滴でも、いっとく?」

またもや爆笑。

ただ、打ち合わせ先の人は、これが、どういうギャグなのかわからず苦笑。

楽しい、午後であった。

夜になって、救う会の代表を正式に受けてくれる事になった小形氏から電話があった。彼とは小学からの友人だ。

彼から、いろいろ説明を受けたが、救う会の動きが、急に慌ただしくなってきた。

とにかく、今日説明受けた事だけでもパニック状態になっている。


7月24日(土)

来週の月曜日、栃木県庁に行き、記者会見をすることが決まった。

話しが急すぎる、月曜は、ブロスとアスキーの締切りだ。

なんのネタの用意もしていない。急いで、ネタを考えなきゃならない。

アスキーは画像も使うから(自分の手作り)なお大変だ。展開がスピードを増してきた。

そんなところへ、トリオの荒波さんから電話。

「来月の8~10日の間で渡米を考えてますので、用意しておいて下さい」

今日は、妻は子供と川遊びに行っている。俺は部屋の中、一人でパニックに陥っている。

「行ったら、そのまま行きっぱなしになると思います」と荒波さん。

トリオジャパンの副会長で、10年前に自分も肝臓の移植を経験した方がいるのだが、ダラスに付き添ってもらえるという。

この方は大学の英語教師で英語はペラペラ。ベイラーの医師達とも懇意だという。向こうでのアパート探しなど細かいことまで協力してくれるという。

夕方、妻が帰ってくる。そして、ことの次第を報告する。

彼女も、あまりの展開の早さに目を丸くしている。

彼女はストレスの固まり状態になっている。いつ爆発しても、おかしくない状況だ。

夕食後、二人で今後の日本での事後処理を話し合う。つもりだったが話し合いにならなかった。

妻は頭の中の整理がついていないらしく、建設的な話しができない。

夜、一緒に渡米してくれるトリオの副会長さんに電話する。一度、お会いしましょうと決まり、さっそく明日来てくれる事になった。

とりあえず、ダラスに行くことが決まった。スタート地点まで、もう少し。


7月25日(日)

夜、大学で英語を教えていて、自ら肝臓移植の体験者である野村さんが来訪。

この人は奇蹟の人だ!

野村さんも、母子感染からB型肝炎で肝硬変の末期症状になってしまった。それが10年前の話しだ。

今でこそ日本でも、脳死移植が始まった。しかし、移植を受けられる確率は宝クジを当てるほどのチャンスしかない。これが日本の現状だ。

日本の病院では、内科的処置での延命行為が通常の治療だ。患者は、静かに死を待つだけの生活を選択するしかないだろう。

野村さんの奇蹟は、奥様がもたらした。

奥さんはアメリカ人、両親がダラスに住んでいた。

その近くにベイラー医科大学病院があったのだ。

「ベイラーなら移植をしている」

ここに最初の奇蹟が起きる。

普通の日本人が10年前に『移植』という発想にたどりつくか疑問だ。

そして、移植手術。

実はB型肝炎の移植には、かなりのリスクがある。

移植とは、他人の臓器を自分の体の中に入れることだ。移植を受けた体は、その臓器を異物と受け止め拒否反応をしめす。

それを軽減させるために、免疫抑制剤を使うのだが、ここに問題が起きる。

当初、移植をした臓器にB型肝炎ウイルスはいない。しかし、体の中から消えたわけではない。血液中には存在しているのだ。

そこに、免疫抑制剤である。

急激にウイルスは増殖し、肝臓を一気に破壊するのだ。せっかく移植をしても生存率は、ほとんどない。

ベイラーだけか、全米でなのか聞き忘れたが、B型肝炎患者に移植を施した例は数百あった。(10年前の話し)

しかし、無事、生き残っているのは、たった二人だけ。野村さんは、そのうちの一人なのだ。

事実、野村さんが移植した後、5年ほど、移植先進国アメリカでもB型肝炎は移植の適応外だった時代がある。

移植しても、無駄であると判断されたのだ。

数百分のニの生存確立、この勝ち目の薄い勝負に野村さんは完勝した。

では、果たしてオレに勝ち目はあるのか?

大丈夫!これは10年前の数字だ。

現在の状況はかなり違う。

医学も進歩し、いい薬もある、B型肝炎も立派に移植適応だ。

移植後5年生存率も、具体的な資料が手許にないのではっきりしたことはいえないが、かなりいい数字だ。

ちなみに、現在の日本でも、B型肝炎は移植適応だ。だが移植を待つとすると、順番はかなり後になるだろう。

日本の移植の順番は点数制できまる。点数が高いほど優先順位が高いのだ。まず、それぞれの病気には、基礎になる点数がある。それに症状の程度で点数が加算される。

B型肝炎は基礎点数がとても低い。移植待ちのレシピエントの中でも、最初から、ハンデがあるのだ。

野村さんの話しに戻る。

奇蹟的に移植に成功した野村さんは、元気に職場復帰、そして仕事のかたわら、トリオジャパンの副会長として、同じ苦しみを持つ人を助けるための活動を精力的にしておられる。

今回の渡米の際には、同行してくれるとまで、おっしゃってくれた。見知らぬ国で、言葉も話せぬダラス行きに不安もあったが、それも消し飛んだ。

また、一つハードルを乗り越えた夜だった。


7月26日(月)

救う会代表の小形氏が、朝8時に向かえに来てくれる。

これから栃木県庁で記者会見だ。なぜ栃木かといえば、母子感染である俺の生まれは栃木の足利だ。

募金のお願いの記者会見。そしてもう一つ、県知事宛に、地方行政からも、移植医療の発展を国にお願いしてもらえるよう要望書を届ける。

ヒロタカはビックリして最初泣き出してしまったが、まあ無事終了。

そのまま東京にとんぼ帰り。

帰りの車に携帯が入る。

先に家についた足利の妹からだ、夕方6時のニュースに少し流れたらしい。


7月27日(火)

午前中に、東大病院へ行く。先生に、渡米が見えてきたことを話す。

アメリカの内科的治療は雑らしい。その分、移植が盛んだし、進んでいる。

そして、ここが問題だ。

保険はきかない立場なので、全ての医療が高い。向こうで静脈瘤でも破裂して、ICUに入院したとする。それだけで、一泊100万。そこに治療費がかかるし、薬代も。

とにかく、日本にしかない薬もあるし持てるだけ持っていくことになる。薬を両手に抱えるように帰途へつく。

阿佐ヶ谷駅に中央線がすべりこんだのは2時すぎだった。

間に合う!

そのまま荷物を事務所のタイタンにあずけ富士銀行へ。クレジットカード、インターナショナルカードなどつくる。

急に慌ただしくなってきた。


7月28日(水)

今日は都庁で、パスポートの申請だ。

家族3人分の書類と、まぬけな顔に写った写真を抱え、旅券課へ。

思ったほど、時間がかからなかった。


7月29日(木)

今日も東大病院で点滴。薬も多めに出してもらう。診察が終わったのが昼過ぎだった。

先生から「一緒に食事をとらないか」と誘われる。

是非、とついていった先は院内のレストラン。

「よし決めた!おれ、冷シャブ!」なんて、御機嫌な先生である。

食事制限のある俺は、メニューをながめても困るだけである。

いろいろ考えたが「いくら丼」にした。

食事をしながら、世間話しや気になることを質問したりする。

それに、冗談をまじえながら、気さくに答えてくれる先生。

医者と患者の距離を感じさせない、先生である。

一緒に食事を取る、気さくな先生であるが、はたして、それだけのことであろうか。

本当の医療とはここから始まるべきなのではないだろうか。

生きてく者として、食物は生命の源である。それを供に食し、そして、人間だけにあたえられた言葉で、コミュニケーションをとる。

アメリカでは、医者と患者である前に個人とのつながりを大切にする。

そして、その個人の一方はプロの医療スタッフであり、もう一方は患者である。個人としてのつながりに上下関係はない。

アメリカ気質といえば、それまでだが、医療に対して不安があれば、すぐ質問するし、医師も「素人が何を言うか」なんて見せかけの威厳を、まきちらかすこともない。

本当の意味で信頼感のある治療は、実はこんなところから始まるのかもしれない。

治療に来て、医者に食事に誘われたのことがなかったので、こんな感想を持ったのだが、主治医の先生、たんなる食いしん坊だったりして。


7月30日(金)

妻と大ゲンカ。離婚も考える。

夜、じっくり話し合う。

周りからからみると、仲の良い夫婦に見えるかも知れない。

ここでも、いいことしか書かないし。

例え俺が病気でも、二人の関係は変わらない。相変わらず大ケンカはするし、平気で妻は家を飛び出していく。

武蔵野の実家に帰るのだが、たいてい一泊で帰ってくる。

その家出の間に何かあったらどうするつもりなのか知らないが、怒ると、お互いに冷静さを失う。

野村夫妻がいっていた。

今回のことで(海外での移植)絆がより深まる夫婦もあるし、壊れてしまう夫婦もある。

うちがどうなるかわからない。

それはまるで、生と死の関係のように隣あわせだ。

元気な時には気づかない。

問題の病巣が表に現れると、普段は見えない死神が顔を上げる。

別れる理由を10見つけたら、それを乗り越える手段を11見つけなくてはいけない。

死神に腕を掴まれたら大変だ。

とりあえず今回のケンカは、「もう一度、二人で頑張ろう」で落ち着いた。


7月31日(土)

河北で内視鏡の検査。

前回の静脈瘤でした治療の予後の確認と、やばい状態にある静脈瘤があった処置をするため。

検査の結果は、処置なし。

このまま、飛行機に乗ってダラスに行くのだ。

破裂したら、破裂したでしょうがない。

困難に正面から戦うしかない。

ダラスに行くにあたり、このアパートをひき払うことにした。そのための用意を少しずつこなす。

夕刊の内外タイムズに記事がのる。先日、取材していただいた。

妻には、週刊誌の女性自身から取材のアポがきている。

今さら、隠すことは何もない。

裸になって全てを話せばいいだけのことだ。