3度の入院

注意
これは1999年の日記のため、情報が古いです。また、医療情報についても素人患者の闘病記です。ご自身の健康に関しては、医療機関に相談してください。

最初の入院

阿佐ヶ谷の西友でのことだ。MNZAI-Cの西野君にばったり出会った。

「ハギさんハワイにでも行ったんですか。いいなー」

最近、会う人みんなに顔が黒いと言われていた。さすがに「日に焼けましたねー」と言われると、、、、、。

微熱も下がらないし、持病の慢性肝炎がちょっと悪化したかなくらいに考えていた。入院のきっかけは、40度近い高熱だ。その日は、ある番組の収録があった。なんとかこなし、残る力をふりしぼり近くの病院に行った。

「慢性肝炎なんです。熱も40度くらいあって」

説明すると、医者は俺の顔色をじっと見つめ

「とりあえず採血して調べましょう。一時間もあれば結果がわかるから、それまで待ってて下さい」

待合室で熱にうなされ待っていると、名前を呼ばれた。

「あなた慢性肝炎じゃないよ。もう肝硬変だよ」いきなり医者に告げられた。「入院ですね」

思いもよらない展開に驚いた。気持ちの整理もつけるためもあるし、入院するための着替えもない。

「家がすぐ近くなんですよ。着替えもないし、妻にも説明しないと」

病院から家まで5分ほどだ、着替えをとりに帰るくらい、どうということもないと思っていた。

医者が言う。

「死にたいんですか?あなた、いつ倒れてもおかしくない状況なんですよ」

そりゃ死にたいわけがない。そこまで脅されては「はい」と黙って言うことを聞くしかない。とりあえず家族には電話で説明し、入院の手続きを済ませる。

受け付け等は1Fにあるのだが、さっそく病室まで看護される。昨日まで、普通に生活していたのが嘘のようである。

肝硬変とは、何度も再生のきく肝細胞が、ついに壊れて繊維化した状態の肝臓のことである。肝硬変も、まだ肝臓の機能を果たせる状態のものと、そうでないものとに分けられ、この時の俺はぎりぎりのところだったのではないか?

機能を果たせない状態を非代償期というのだが、こうなると肝硬変特有の症状があらわれる。顔色が悪いのは黄だんの症状が現われたのだ。

山ほどの点滴と、ベッド上での安静、2週間ほどで退院できたが、検査の結果、食道に静脈瘤があるのがわかった。

これが、破裂すると大変なのだが、今、治療するのもリスクがあるとのことで、今回は見送くられた。

ここまでが去年の春(1998)の話しである。

二度目の入院

二度目の入院は腹水だ。

自分では「太ったな」くらいのつもりだった。それがサウナに行って全身鏡を見て驚いた。腹だけが以上にでているのだ。

入院のきっかけは、やはり高熱によるものだった。

外来に行くと、自分の担当している医者はいなかった。しかたないので、一般外来で受け付けして待っていた。

そして、この医者が、頼りないのなんの。

「腹水たまってますね」の一言で、なんの処置もしてくれない。翌日、俺の肝臓の担当医が、午前中に外来にいるので、また来ることにする。

担当医は、俺の腹を見るなり

「かなり溜まってますね。入院したほうがいいでしょう」と入院が即決された。

ただ病室があいてないので、開きしだい連絡するとのことだった。高熱のほうは、座薬を出してもらった。その夜中が大変だった。

「今すぐ救急車!!はやく呼んで!!」

威勢のよい声が、耳の中に響く。何ごとかと、眠い目をこすると、わが家の部屋のど真ん中に仁王立ちした社長がいた。俺が、肝臓を悪化させ高熱を出したらしいと、誰かに聞いたらしい。

遠くからサイレンが近づいてくる。救急隊員が河北病院に電話している。

「4万の部屋ならあいてるそうです」

俺は飛び起きた。

「それは、やめて。払えない、、、」

社長がいう。

「命とお金とどっちが大切なの」

俺は担架で救急車で運ばれ、河北病院の緊急処置室つれていかれた。点滴を打たれているうちに寝てしまった。気がつけば妻が横に立っている。

「歩いて帰れる?」

看護婦の問に首を横にふることしかできない。どうやら、ここはまだ緊急処置室らしい。

「タクシーで帰りますから」

妻の声と肩に支えられ、わが家にたどり着いた。

病室が開きましたからと、電話が鳴ったのはその日の午後だった。

翌日から入院生活である。

塩分とタンパクを抑えた食事制限。点滴各種。利尿剤の注射。注射といっても、痛くはない。四六時中着き刺さったままの点滴、その管の途中から注入するだけである。

この利尿剤の注射は効果抜群。入れた途端に尿意が込み上げてくる。そして、これでもかというほど尿がでる。

2週間の入院で、腹水はほとんどなくなった。

そして退院である。

今年の春(1999)3月の始めに入院。中旬に退院である。

3度目の入院

3月の中旬に退院した。

今月一杯は静養して、来月あたりから家族のためにバイトを探して働くか。デスクワークくらいならなんとか。頭の中で計画を立てていた。俺の描くすごくちっぽけな未来予想図。それが炎だして燃えあがった。

それは、その日の夕食の後だった。

食欲もなく、ほとんど食べ残し「気分悪いんで横になる」と布団にもぐり込んでいた。

吐き気がしたので、トイレに行こうとしたら吐いてしまった。

やべ、ゲロもらしちゃった。第一印象はそんなところだったが、次の瞬間、「あれ?なにこれ!!」に変わった。

吐いたのは、血のあぶくみたいなものだったのだ。

「とにかく河北病院にいかなきゃ」

俺は妻の肩に捕まって河北に向かいながら、医者の言葉を思い出していた。

「あなたは喉に静脈瘤という爆弾を抱えているようなもんです」

いきなり、破裂したか?まだ退院したばかりなのに。緊急処置室の若い医者が点滴を差す。意識が薄れていく。気がついたときには、生死の山を一つ超えたときだった。

われながら生きている
~感謝の気持ちを込めて~

俺を呼ぶ声が遠くで聞こえる。

「萩原さん!萩原さん!」

その声がだんだん近づいてくる。

うっすらと目を開ける、数人の医者の顔が俺をのぞき込んでいた。

「良かった、意識が戻って。良かった良かった」

彼等は口々にそんなことを言っている。

~意識が戻った?~

なんのことを言ってるのか俺には、わからなかった。

それよりも、異常に喉の乾きを覚える。

「水がのみたい」

声に出したつもりだが、言葉にならない。

「なに正人?」

俺の口元に耳を寄せてきたのは母である。

~なぜ母がここにいるのだろう?~

「昨日は、お父さんも来てくれたんだよ」

彼女は俺に語りかける。

曇った意識の中で俺は考える。

~お父さん?~

不思議な話しだ。父は糖尿で入院中のはずである。

しかも今回は手術もするとのこと、かなり深刻な状態なはずである。

そんな父が、なんで見舞いになんてこれるのか?

部屋の隅を見れば妻が涙目で立っている。

「タイタンのみなさんも心配して下さって、ずっと励ましてくれたのよ」

意識がはっきりしだすうちに、少しずつ思い出してくる。

~そうだ俺、家で血を吐いたんだ~

しかし、それはごく少量だったはずである。

歩いて近くの病院に行ったのは夜の8時くらいであったろうか。

前回、肝機能の低下で入院し、先日退院したばかりである。

~あーまた入院か~

そんな憂鬱な気分になったのも覚えてる。

ただ、そこからの記憶がないのだ。

 

また俺は眠っていたのだろう。

母の声で起こされた。

「お友達がきてくれたわよ」

目を開けると、そこには浅草キッドの二人と、江頭さんが立っていた。

3人とも、深刻そうな顔である。

「いや、元気そうで良かった」

「ハギ負けるなよ」

と声をかけてくれる。

俺も何か話そうとするが、うまく口がまわらない。

しかし、なぜ彼等までもが見舞いにきてくれるのだろう。

確かに3人とも、よく知っている。

お笑いをはじめた時からの知り合いで、キッドとは一緒にお笑いライブを主

催していたこともあるくらいだ。

しかし、ここ数年は年賀状の挨拶程度で、ほぼ付き合いは跡絶えていた。

しかも彼等は、彼等らしくもない神妙なお見舞いである。

博士が、うちの母と話ししている。

「良かったですね、お母さん。ここまで意識が戻れば大丈夫ですよ」

 

キッドが帰ったあとで、河崎さんがやってきた。

「河崎さんは、あなたのことが心配で毎日きてくれてるのよ」

母が言う。

俺はお礼を言おうとするが、あいかわらず口がうまくつかえない。

「無理すんなハギ」

河崎さんが優しい声をかけてくれる。そして、その後ろに金谷くんがいた。

プライベートで一番親しい友人だ。

そんな彼が、とまどった顔をこちらにむけている。

なんで、いつもの調子で話しかけてこないのだろう?

俺は気がついた。

~もうしかして俺、死にかけてた?~

母や妻の話しによれば、従姉妹や栃木の友人まで見舞にきたらしい。

~そうか、俺は危篤だったんだ~

どうりでみんなの態度が変なわけだ。

 

その日の夜、太田さんが見舞いにきてくれた。

あんな優しい言葉をストレートにかけてくれる太田さんは始めてだった。

その週のアップスを、ベッドの中で聞いていた。

すっかりネタにされていた。

それを聞いて笑っていたリスナーも多いと思うが、

一番笑っていたのは俺だろう。

 

結局、無事助かって、それを笑いとばせることもできた。

ギャグにされることは、生きてる証しでもあるのだ。

今回、多数の友人のみんなに見舞にきてもらい感謝している。

なかでもお笑い仲間の励ましには助けられた。

あらためて、感謝の気持ちでいっぱいである。