最初の入院
阿佐ヶ谷の西友でのことだ。MNZAI-Cの西野君にばったり出会った。
「ハギさんハワイにでも行ったんですか。いいなー」
最近、会う人みんなに顔が黒いと言われていた。さすがに「日に焼けましたねー」と言われると、、、、、。
微熱も下がらないし、持病の慢性肝炎がちょっと悪化したかなくらいに考えていた。入院のきっかけは、40度近い高熱だ。その日は、ある番組の収録があった。なんとかこなし、残る力をふりしぼり近くの病院に行った。
「慢性肝炎なんです。熱も40度くらいあって」
説明すると、医者は俺の顔色をじっと見つめ
「とりあえず採血して調べましょう。一時間もあれば結果がわかるから、それまで待ってて下さい」
待合室で熱にうなされ待っていると、名前を呼ばれた。
「あなた慢性肝炎じゃないよ。もう肝硬変だよ」いきなり医者に告げられた。「入院ですね」
思いもよらない展開に驚いた。気持ちの整理もつけるためもあるし、入院するための着替えもない。
「家がすぐ近くなんですよ。着替えもないし、妻にも説明しないと」
病院から家まで5分ほどだ、着替えをとりに帰るくらい、どうということもないと思っていた。
医者が言う。
「死にたいんですか?あなた、いつ倒れてもおかしくない状況なんですよ」
そりゃ死にたいわけがない。そこまで脅されては「はい」と黙って言うことを聞くしかない。とりあえず家族には電話で説明し、入院の手続きを済ませる。
受け付け等は1Fにあるのだが、さっそく病室まで看護される。昨日まで、普通に生活していたのが嘘のようである。
肝硬変とは、何度も再生のきく肝細胞が、ついに壊れて繊維化した状態の肝臓のことである。肝硬変も、まだ肝臓の機能を果たせる状態のものと、そうでないものとに分けられ、この時の俺はぎりぎりのところだったのではないか?
機能を果たせない状態を非代償期というのだが、こうなると肝硬変特有の症状があらわれる。顔色が悪いのは黄だんの症状が現われたのだ。
山ほどの点滴と、ベッド上での安静、2週間ほどで退院できたが、検査の結果、食道に静脈瘤があるのがわかった。
これが、破裂すると大変なのだが、今、治療するのもリスクがあるとのことで、今回は見送くられた。
ここまでが去年の春(1998)の話しである。
二度目の入院
二度目の入院は腹水だ。
自分では「太ったな」くらいのつもりだった。それがサウナに行って全身鏡を見て驚いた。腹だけが以上にでているのだ。
入院のきっかけは、やはり高熱によるものだった。
外来に行くと、自分の担当している医者はいなかった。しかたないので、一般外来で受け付けして待っていた。
そして、この医者が、頼りないのなんの。
「腹水たまってますね」の一言で、なんの処置もしてくれない。翌日、俺の肝臓の担当医が、午前中に外来にいるので、また来ることにする。
担当医は、俺の腹を見るなり
「かなり溜まってますね。入院したほうがいいでしょう」と入院が即決された。
ただ病室があいてないので、開きしだい連絡するとのことだった。高熱のほうは、座薬を出してもらった。その夜中が大変だった。
「今すぐ救急車!!はやく呼んで!!」
威勢のよい声が、耳の中に響く。何ごとかと、眠い目をこすると、わが家の部屋のど真ん中に仁王立ちした社長がいた。俺が、肝臓を悪化させ高熱を出したらしいと、誰かに聞いたらしい。
遠くからサイレンが近づいてくる。救急隊員が河北病院に電話している。
「4万の部屋ならあいてるそうです」
俺は飛び起きた。
「それは、やめて。払えない、、、」
社長がいう。
「命とお金とどっちが大切なの」
俺は担架で救急車で運ばれ、河北病院の緊急処置室つれていかれた。点滴を打たれているうちに寝てしまった。気がつけば妻が横に立っている。
「歩いて帰れる?」
看護婦の問に首を横にふることしかできない。どうやら、ここはまだ緊急処置室らしい。
「タクシーで帰りますから」
妻の声と肩に支えられ、わが家にたどり着いた。
病室が開きましたからと、電話が鳴ったのはその日の午後だった。
翌日から入院生活である。
塩分とタンパクを抑えた食事制限。点滴各種。利尿剤の注射。注射といっても、痛くはない。四六時中着き刺さったままの点滴、その管の途中から注入するだけである。
この利尿剤の注射は効果抜群。入れた途端に尿意が込み上げてくる。そして、これでもかというほど尿がでる。
2週間の入院で、腹水はほとんどなくなった。
そして退院である。
今年の春(1999)3月の始めに入院。中旬に退院である。
3度目の入院
3月の中旬に退院した。
今月一杯は静養して、来月あたりから家族のためにバイトを探して働くか。デスクワークくらいならなんとか。頭の中で計画を立てていた。俺の描くすごくちっぽけな未来予想図。それが炎だして燃えあがった。
それは、その日の夕食の後だった。
食欲もなく、ほとんど食べ残し「気分悪いんで横になる」と布団にもぐり込んでいた。
吐き気がしたので、トイレに行こうとしたら吐いてしまった。
やべ、ゲロもらしちゃった。第一印象はそんなところだったが、次の瞬間、「あれ?なにこれ!!」に変わった。
吐いたのは、血のあぶくみたいなものだったのだ。
「とにかく河北病院にいかなきゃ」
俺は妻の肩に捕まって河北に向かいながら、医者の言葉を思い出していた。
「あなたは喉に静脈瘤という爆弾を抱えているようなもんです」
いきなり、破裂したか?まだ退院したばかりなのに。緊急処置室の若い医者が点滴を差す。意識が薄れていく。気がついたときには、生死の山を一つ超えたときだった。
われながら生きている
~感謝の気持ちを込めて~
俺を呼ぶ声が遠くで聞こえる。
「萩原さん!萩原さん!」
その声がだんだん近づいてくる。
うっすらと目を開ける、数人の医者の顔が俺をのぞき込んでいた。
「良かった、意識が戻って。良かった良かった」
彼等は口々にそんなことを言っている。
~意識が戻った?~
なんのことを言ってるのか俺には、わからなかった。
それよりも、異常に喉の乾きを覚える。
「水がのみたい」
声に出したつもりだが、言葉にならない。
「なに正人?」
俺の口元に耳を寄せてきたのは母である。
~なぜ母がここにいるのだろう?~
「昨日は、お父さんも来てくれたんだよ」
彼女は俺に語りかける。
曇った意識の中で俺は考える。
~お父さん?~
不思議な話しだ。父は糖尿で入院中のはずである。
しかも今回は手術もするとのこと、かなり深刻な状態なはずである。
そんな父が、なんで見舞いになんてこれるのか?
部屋の隅を見れば妻が涙目で立っている。
「タイタンのみなさんも心配して下さって、ずっと励ましてくれたのよ」
意識がはっきりしだすうちに、少しずつ思い出してくる。
~そうだ俺、家で血を吐いたんだ~
しかし、それはごく少量だったはずである。
歩いて近くの病院に行ったのは夜の8時くらいであったろうか。
前回、肝機能の低下で入院し、先日退院したばかりである。
~あーまた入院か~
そんな憂鬱な気分になったのも覚えてる。
ただ、そこからの記憶がないのだ。
また俺は眠っていたのだろう。
母の声で起こされた。
「お友達がきてくれたわよ」
目を開けると、そこには浅草キッドの二人と、江頭さんが立っていた。
3人とも、深刻そうな顔である。
「いや、元気そうで良かった」
「ハギ負けるなよ」
と声をかけてくれる。
俺も何か話そうとするが、うまく口がまわらない。
しかし、なぜ彼等までもが見舞いにきてくれるのだろう。
確かに3人とも、よく知っている。
お笑いをはじめた時からの知り合いで、キッドとは一緒にお笑いライブを主
催していたこともあるくらいだ。
しかし、ここ数年は年賀状の挨拶程度で、ほぼ付き合いは跡絶えていた。
しかも彼等は、彼等らしくもない神妙なお見舞いである。
博士が、うちの母と話ししている。
「良かったですね、お母さん。ここまで意識が戻れば大丈夫ですよ」
キッドが帰ったあとで、河崎さんがやってきた。
「河崎さんは、あなたのことが心配で毎日きてくれてるのよ」
母が言う。
俺はお礼を言おうとするが、あいかわらず口がうまくつかえない。
「無理すんなハギ」
河崎さんが優しい声をかけてくれる。そして、その後ろに金谷くんがいた。
プライベートで一番親しい友人だ。
そんな彼が、とまどった顔をこちらにむけている。
なんで、いつもの調子で話しかけてこないのだろう?
俺は気がついた。
~もうしかして俺、死にかけてた?~
母や妻の話しによれば、従姉妹や栃木の友人まで見舞にきたらしい。
~そうか、俺は危篤だったんだ~
どうりでみんなの態度が変なわけだ。
その日の夜、太田さんが見舞いにきてくれた。
あんな優しい言葉をストレートにかけてくれる太田さんは始めてだった。
その週のアップスを、ベッドの中で聞いていた。
すっかりネタにされていた。
それを聞いて笑っていたリスナーも多いと思うが、
一番笑っていたのは俺だろう。
結局、無事助かって、それを笑いとばせることもできた。
ギャグにされることは、生きてる証しでもあるのだ。
今回、多数の友人のみんなに見舞にきてもらい感謝している。
なかでもお笑い仲間の励ましには助けられた。
あらためて、感謝の気持ちでいっぱいである。