2000年6月 ヘリングファミリー

注意
これは2000年の日記のため、情報が古いです。また、医療情報についても素人患者の闘病記です。ご自身の健康に関しては、医療機関に相談してください。

6月1日(木)

目が覚めれば6月1、広空(ひろたか)の誕生日。

日本では、もうケーキも食べ終わり、はしゃぎ疲れて眠たい頃だろう。

広空が言う。

「帰ってきたら焼肉屋に連れてってあげるね」

連れてって頂戴ではなく、連れてってくれるのだ。

移植の打ち上げに焼肉屋。

お前は事務所の社長かと突っ込みの一つもいれたくなる。

だいたい1000円や2000円ではキムチ丼しかたべれない。

そんな広空だが、「別にディズニーランドでもいいよ」

と言う。やはり本音はこんなところかと思う。

それぐらいは連れていってやろうと思う。

一年間頑張ったんだから。

「ディズニーランドがいいじゃない」とオレ。

「いいよ焼肉やで、お小遣いもためたし」

「そんなに頑張って貯めたお金なら、自分が一番好きなように使いなよ」

「いいよ、焼肉屋でいい」という。

「ディズニーランドがホントはいいんでしょ。ねぇ」

パパは君の本音を知ってるんだよ~っ。

などと彼のシッポを捕まえた気分。

「ディズニーランドにしようよ」とオレ。

「いいよ、、、、、ほんとにいいんだよ」と広空。

オレの「なんでいいの」の質問に、「だって、、、、」

と口を濁す。

ここで優しい声で父親ぶって一言。

「なんでだい。どんな理由でもパパは怒ったりしないよ」

「ホントに、」と広空が言う。そして、彼が言った一言は、

「だって、、、パパまだそんなに歩けないでしょ」

(あっそうかそういう事か、、、確かにディズニーランドに行ったら、それこそ死ぬほど歩く。こいつそんなとこまで、気を使っていたんだ。あいつのほうが大人だ)

オレは強がって。

「歩けるさ!」

すると広空。

「、、、、本当に?疲れたとか、もう帰ろうよとか言わない?」

「、、、、それは言うかも知れない」とオレ。

「そうでしょう、やっぱりね~」

返す言葉がない。

息子に負ける日はいつかくるとは思っていたが、早すぎる。

息子8才。


6月2(金)~8日(木)

相変わらず好調の検査データ。

問題をあげるとすればカリウム値が高い。

それとやはり体重だ、なぜか増えない。

食べても食べても結果がでず。

なおさら食べる気にもなれず。

悪循環で体重も減り出す。

自覚症状の腹痛は、傷の痛みに薬の副作用もあるだろう。

これは痛み止めでなんとかなるが。

ここ最近、へんな咳とタンがからむ。これは何?


6月9日(金)

9日の夜、すごい再会があった。

今回の海外移植の橋渡しをしてくれたK先生が、ベイラーにきたのだ。

仕事でアメリカへ来て、そのついでに寄ってくれたのだ。

先生がダラスに来る理由は3つある。

一つは、ベイラーにいる、友人の移植医師と会うためだ。

二つ目は、ベイラーで外科医として最先端の移植技術を学んでいる、大学の後輩がいるから(丸橋先生)。

そして三っ目は、、、ついでにオレがいる。

夕方、車が迎えに来てくれた。

運転しているのは丸橋先生、また今夜もお世話になる。

夕食はバーベキュー。

助手席にK先生。「おひさしぶりです」

「よかったねー」

先生に喜んでもらい再会を果たす。

妻も大喜びだ。

「いらっしゃーい」

大きなお腹を抱えた、まる妻の明るい声。

さあ楽しい宴の始まりだ。

K先生と丸橋先生が話すのは医学の話し。

オレが加わればバカ話し。

このK先生が、オレの余命を半年と診断してくれた。

しかも、いとも気軽に。

世間話しの途中に、何気に血液検査のデータに目をやり、

「でも、こうなると6ヶ月かなー」

オレも一瞬聞き逃して、のんきな返事をかえしていた。

「なるほど~」

ちょっとまて、感心している場合ではない、余命半年なのだ。

「待って下さいよ。えっ、オレの寿命は半年なんですか?」

「ビリルビンの数字がここまで悪くなるとねー」

「だって、アメリカで移植するとなると、順番待ちで一年から一年半はかかるかも知れないんでしょう。オレ死んでるじゃないですか。しかも異国の地で」

「だから、今すぐにベイラーにいって登録しなくちゃ駄目なんだ。今ここでこうしている事は、何もしていないに等しいんだよ。何かしてあげたいけど、君が命をホントに守りたいなら、今すぐベイラーにデポジット(前払い金)を払うしかないんだ。」

先生はベイラーのドクターと英文のメールで何度も連絡をとり、オレの受け入れの準備を進めてくれた。

これは、先生のまったく仕事外のことである。

そして、移植をふまえた治療もしてくれた。

テレビの画面から、海外で移植医療する人の映像が流れる。

オレも東京にいたときに何度か見た。

その時の印象は、この人は特別な人なんだ、なにか個人的な人脈があり、大金持ちの人なのだと思った。

そんな事はないのだ。

どうしても生きたいと願い。まずは、それができる医師をさがし、その医師にその熱意をみせるのが大切なのだ。

もともと、それは仕事ではないのだから。

だれでも、生きたいと願い、あらゆる困難もあきらめずに頑張れば可能性はあるのだ。

この日先生に聞いた話だ。

丁度、オレが渡米する時期に、やはりアメリカに移植のため渡った人がいる。

しかし、残念なことに検査の結果は移植不適応になってしまい、帰国したとのこと。

いよいよ危ないとの話しだった。

オレもそれを聞いて、アメリカでさじを投げられたらどうしよう。

そんな不安があったのを覚えてる。

先生に聞いたのは、この後日談だ。

帰国した彼は、全財産をもって東京へでてきた。

そして、K先生のもとで治療を受けつつ、なんとかならないかと懇願していた。

生体肝移植は、すでに適応する親族がいないのは確認済だ。

それでも諦めきれない彼は、

「この人が私に肝臓をくれるそうだ!」

と突然医師のところにやってくる。

聞けば運転手だという。詳しく聞かなかったので解らないが、タクシーの運転手を口説きおとしたのだろうか。

しかし、例え善意の申し出にせよ、これは倫理委員会で通らない。

ただ、かれの生きることへの執念だけはすごかった。

医師もここまで真剣に生への情熱をもたれれば、自然になんとかしたいと思うだろう。

ここで、偶然も重なったがウルトラCが飛び出した。

日本での数例目の脳死移植があったのだ。

そこで、どうせ廃棄される患者(移植を受ける側、レシピエント)の肝臓なら、欲しいということで、彼がその肝臓をもらうことになったのだ。

ドミノ移植である。日本でも大きなニュースになっていたと思う。

移植が必要なほど痛んだ肝臓を、彼は貰ったわけだ、その肝臓は彼よりは、いくぶんましだった。

確かに緊急処置的な手術だが、すごいことだ。

彼の生への情熱がドミノ移植を呼んだのだ。

普通の人なら適応外になった時点で、諦めてしまうかも知れない。

彼は今も元気にしているという。

K先生は言っていた。

「ここまで真剣に生きたいと言われたらなんとかしたいと思うよね」

先生は過去に多くの患者を海外に送りこんでいる。

そして、移植を受け多くの命が助かった。

K先生の功績は素晴らしいのだか。

もっとすごいのが、これらのことを仕事以外でやっているのだ。

オレの場合も、海外の病院の医師と何度もメール(英文)でやりとりをして、挙げ句の果ては、経理の人のお尻まで叩く『はやく契約書つくって欲しいのだが、早急にお願いします』なんてメールまでだしてくれていた。

日本では死を待つだけだった自分に、海外での脳死移植への道を開いてくれたのは先生だった。

成田空港で記者会見して海外移植にいくのは、別に特別な人ではなかった。

人より生への執念があれば、その扉は見つけられるかも知れない。

ヘリングファミリー

オレは幼い頃、それは小学3年生から高校1年までの8年間、

教会に通っていた。

高校になって、遊ぶのが忙しくなり、足が遠のいたが、

牧師夫妻との付き合いは今尚続いている。

母が熱心なクリスチャンだということもある。

ちなみに、うちの妻がウエディングドレスを着たのは、この教会だ。

教会はプロテスタント系ルーテル教会(アメリカに多い宗派)で、アメリカに本部がある。

日本に伝道のために来ているのだが、教会は多くはない。

それでも北関東を中心に10~20ある。(詳しくは知らない)

アメリカにルーテル教会は数あれど、それも諸派に分かれているらしい。うちの教会は少ないという話だ。

渡米前に押野牧師に聞いた。

「ダラスか、、、どうだろう、聞いてみるよ」

返事はアメリカに着いてから届いた。

パスター、ヘリング。ヘリング牧師の登場である。

なんと、ダラスにうちの教会系があったのだ。

これには驚いた、素晴らしい偶然である。妻と二人大喜びした。

ここで、日記を読んでいる冷静なあなた、

『いくら少ない諸派でも、アメリカだったら各都市に一つくらいはあるでしょう。それに、ダラスは大都市だし』

と思うかも知れない。確かにそうだ。しかし、ここにもう一つの偶然が重なったのである。

ヘリングさんは、10年近く水戸で牧師をしており、日本語がペラペラだったのだ。ここダラスには帰ってきたばかり。

日本語ぺらぺらのアメリカ人牧師。これは、かなりの少数派だ。

移植前から週に一度は会っていた。

うちのアパートまで訪ねてきてくれ、励ましてくれた。

入院すれば、すぐに見舞いにきてくれた。

そして元気になった今、毎週日曜は教会に行っている。お昼御飯もヘリング家でごちそうになる。

先日、長男のジェイコブ(11~13才くらい)と英会話を楽しんでいた。

いや、言い直す。苦しんでいた。

挨拶までは、さらさらと会話も進むが、話しの内容が濃くなると、

(、、、これは、英語でなんて言うんだ~)

と苦しむことになる。

オレはおもいきり頭を悩ませる。

それを見て笑うジエイコブ。

オレはふと思い付いた。これだ!

「あれっ、ジェイコブ君は日本語しゃべれるんだよね」

笑顔でコクンとうなずく。

「もしかして、ぺらぺらじゃない?」

「そうだよ」

ちょっとまってよもーーー。

してやられた。

次男のジョエル小学校の3、4年くらいだろうか。ヘリングさんがつくった野球チームの一員だ。チーム名がいかしてる。

『日本ハムファイターズ』

オレは、チーム名を聞いて大笑いした。

ヘリングさんも、ちょとしたジョークのつもりで、名付けたのだろうが、いったい何人のアメリカ人が理解するのだろう。

日曜日は、こんな生活おくってます。

いつも美味しいランチありがとうMrs.ジューン。

そして、おしゃまな姉妹ジェミニにジエナ。

ほんとにどうも、ありがとう。

Tシャツ

みなさん、Tシャツの胸に書かれたマークや、英語の意味を理解

して着てますか?

例えば、「さんまのカラクリTV」のビデオレターに出てくる、素朴でやさしそうなお父さん。

息子のお下がりであろうTシャツを着ている。よく見れば胸に英語の文字が綴られており、冷静に訳して読んでみると。

「権力なんて大キライ、そんな奴はブタどもさ、オレはパンク」

知らないとはいえ、ちょと驚いたことが書いてある。

オレは同じような過ちを過去になんどもしている。

先日は、グランパと書かれたTシャツを着ていた。

自分でも、グランパっておじいちゃんて意味だよなー、こんなTシャツ誰が買ったの?と思っていた。

案の定「君はおじいちゃんかい?」と患者仲間に本気で聞かれた。

オレも「おじいちゃんじゃありません」と本気で弁解した。

日本人同士だと、Tシャツの胸の英語をいちいち気にすることはない。

ただアメリカ人にとっては、英語は母国語、言葉には意味がある。

それを胸に書いてまで歩いているのだから、何か主張でもしているのかと思われても仕方ない。

オレは子供の頃、日曜学校に通っていた。

そのサマーキャンプでのことだ。

このキャンプにはアメリカ人がたくさん参加していた。

さっそくオレのTシャツがやり玉にあがった。

みんなが「ヒューヒュー」言ってはやし立てる。

オレは、その場では理解できず照れ笑いを浮かべ立っていた。

小学の6年生の時だった。

後日、大人の人が教えてくれた。

そこにはね、

『君のことが、恋しくて恋しくてたまらない。君がいないなんて、とても淋しい』と書いてあるんだよ。

丁度思春期に入ったばかり、顔が真っ赤になったのを覚えてる。

そして妻の話しを一つ。

妻は胸にカナダのマークが入ったTシャツを持っている。

オレの認識は、カナダに英文の何気ないものだったが、それを着て歩いていたとき。患者アパートの住人のリアクションがすごかった。

「お前たちは、ナイアガラの滝にいったのか!体はそんなに良いのか。それは素晴らしい。ナイアガラはどんなところだ」

つまりこうだ。

このTシャツは、日本でいえば観光地で売られている地名入りのTシャツだ。

『日光』とか『軽井沢』とか書かれ、なぜか子ギツネのプリントがしてあったりして。

それが『ないあがら』だったと思えばいい。

なるほど、それはナイアガラ帰りの観光客だ。