5月1日(月)~6日(土)
「肝臓移植成功!!拒絶反応もなしで、血液検査のデータは良好だ!これで健康だったオレを取り戻せるんだ!!」
移植手術が成功すれば、劇的な復活が始まると思ってた。
しかし、それは大きな勘違い、『手術終了、はい元気』というわけにはいかないのだ。
そもそも傷口が痛いし、歩くことも、体をベッドから起こすこともままならない。
移植したら減るだろうと思っていた腹水も、溜ったままだった。
やっと意識が戻っても、薬の副作用で頭はボーッとして記憶力もまるで駄目。
指先は震え、あいかわらず、声もだせない。
これをリハビリによって、少しづつ回復させてゆくのだ。
それは突然やってきた。
術後、いきなり現れたリハビリ担当ナース。
とりあえず立ってみろから始まって、翌日には歩かされていた。
オレは絶対無理だと拒否をした、「ノーノー」と難しい顔して連発した。
悲しい顔して「ディス オープン デンジャラ~ス」とも言ってみた。
まったく相手にされなかった。
彼女は平気だからと言ってきかない。
しかたなく、足を床につけて立ってみる。
立てた!そして、歩けた!!
こんな調子で日一日と体力をあげていく。
『よく食べて、よく動け』が彼女の口癖だ。
良く肥え、筋肉を養えというわけだ。
この頃のオレは腹水を含めて、60キロは超えていた。
太ってるねーと思うだろうが、腹がでているだけで、他はガリガリ。
ただ食欲が、術前あれほど食べれなかったのに、かすかな空腹を感じる程に取り戻し。
病飲食も、それなりに食べれるようになっていた。
それで、少しは体重も増えていた。
移植後の経過はすべてが順調に進んでいた。
それは、妻の笑顔を見ればあきらかだった。
彼女は「よかった、よかった」と大きな口を開けて笑っている。
実はこの時、ノー天気に笑ってる場合ではなかった。
よく食べてよく動け、この言葉は奥の深いものだった。
5月7日(日)~14日
よく食べてよく動けを合言葉にして、リハビリを続けること4、5日。
初めは病室から、廊下へ出るだけで「もうやめてぇ~」状態だった。
それが日を重ねるごとに、驚異のスピードで回復。
100メートルは歩けるようになっていた。
手術後の入院スケジュールは、ICUから一般病棟。
10日前後で移植病棟を出て、改めてリハビリ病棟へ二週間入院。
あわせて3週は病院のお世話になる。
そして、退院だ。
リハビリ専用の病棟。
病院の廊下を100メートル歩けたなんて、次元の低い話しでなく、本格的なリハビリの開始だ。
映画などでは、見せ場のシーンだ。
涙をこらえて、苦しいリハビリに耐える少女。
それを、見た目には厳しく、しかし心の中では優しく見守る、サナトリウムの早乙女ドクター。
いつしか二人の気持は通じ合い。そしてラストシーンのテニスの試合。
よし、オレも頑張るぞと気合いをいれて待っていた。
アメリカの早乙女ドクターを待っていたのに。
オレはリハビリ入院を免除された。
全てが順調に回復しており、自宅でのリハビリでOKらしい。
驚いたことに、術後10日で退院が決まってしまった。
(後日聞いた話では、リハビリ病棟が満員だったそうだ)
それはそれで嬉しかった。
退院前に、Dr. 丸橋に腹水を抜いてもらった。
体重を計れば50キロ前後だった。
これくらい常にキープできれば問題ないが、腹水はまだ少し残ってる。
これからは、患者アパートで『よく食べろー!よく歩けー!』だ。
5月8日(月)めでたく退院。
これからは自宅でのリハビリと週二回の通院だ。
火曜日と金曜日が外来の日だ。
朝の7時30分までに、病院の採血室へ行く。その後8時にカフェテリアで少量の食事(食欲がないため)と大量の薬(死なないため)を飲む。
9時に外来受付け。
診察が早ければ昼前に帰れるし、点滴のある日は午後一杯かかる。
退院したといっても、病院との関係がきれたわけではない。
これからが、病院としては大変なのだ。
医学の素人に、数種類の免疫抑制剤の名前から効能に副作用を教え、習慣として日に決まった時間に飲むことを覚えさせる。
もちろん、拒絶反応の症状もだ。
日々の生活で大切なのは、投薬と運動に食事だ。
看護婦の手前では、よく動きよく食べていた。
オレが「ノーアパタイト」(食欲がない)といっても、英語で「あーだ!こーだ!」言われる。
何言ってるのかわからないし、何も反論できずに、「イエス」といってしまうオレがいる。
どんなに腹が苦しくても「はい食べます」だ。
今は妻が相手なので、ついわがままを言ってしまい食事がすすまない。
一時は食欲も戻りかけたのに、やはり逆戻りしているようだ。
それでも、食べてるつもりだが、体重は正直だ。
この頃の体重は46キロ、食べても食べても増えない!
これじゃ鼻チューブが取れない。
とにかく食べなくちゃの毎日だった。
5月15日(月)
数カ月ぶりに、HPを自力で更新する。
更新しなきゃ、と思ってからしばらくかかった。
確かこの時は、トップページを『ホンワカお空』にしたのだが、(現在もそう)あれはギャグだった。
お前似合わないだろ!という友人からのつっこみを期待してのことだ。
とにかく、究極にファンシーなHPにしようとした。
5月16日(火)~18日(木)
今日は火曜日で定期検診。採血と検診を受けて帰宅。
夕方ベイラーから電話。
「採血の結果、脱水の疑いと電解質異常のため入院です」
「えーーーっ」である。
ゆうべは『元気です』とのメッセージを込め、キティちゃんや、スヌーピーが乱舞するような、HPを目ざして更新したばかりなのに。
しかし、今回の入院は大したこと無かった。
水曜日の朝から点滴と投薬、木曜には退院したのだから。
この短期間の入院生活で、オレはある作戦を実行した。
病院食を3食残さず食べ(かなり無理した)、口から十分栄養がとれると看護婦達にアピールした。
なんとその結果、鼻チューブをはずすことに成功。
おまけに、抜糸もすませた。
抜糸といっても、今はホチキスで止めてあるのだが、意味ある入院になった。
5月19日(金)
退院した翌日そうそう定期検診。
昨日の退院前に、免疫グロブリンを点滴したので、早朝の血液検査と外来での検診だけで全て終える。
そして午後、ソファーにもたれノンビリとテレビを見てた。
ドンドン。
アパートの部屋をノックする音。
誰かと思ったら、丸橋先生だった。
退院した翌日である。なにか今朝の採血から、良くないデータでもでてきたか?
恐る恐る、ドアを開け用件を聞く。
「萩原さんに、紹介したい人がいるんですが」
なにやら病院からの用事ではないらしい。
「こちらの方なんですが、、、」
と紹介してくれたのは、某有名な新聞社の女性記者だった。
彼女はベイラーへ医療の最先端技術について取材にきたそうだ。
そこで、クリントマーム医師にインタビュー。(クリントマームといえば、今回の執刀医で世界有数の天才外科医)
彼がその女性記者にオレのことを紹介してくれた。
取材のメインは、医療技術の最先端ということでオレは関係ない。
オレが偶然にも日本人の移植者(レシピエント)ということで、興味をもって寄ってくれた。
やったーインタビューかと思ったら、ただの世間話だった。
とてもリラックスしながら、日本語の会話を楽しんだ。
5月21日(土)
この日記にしばしば登場しているアリスン、彼女との最後のランチ。
彼女はベイラーを辞めて、来週イタリアに引越してしまうのだ。
ベイラーの移植科の経理課長で、とても優秀な人だった。
もちろん、僕らの経理担当でもある。しかしそれ以上のつきあいをして頂いた。
渡米まもない頃など、まだ僕の体力もありアメリカの風物詩を紹介してもらった。
ハロウィン。丁度息子のひろたかが見舞いにきていたので、親子二人浴衣を来て、参加した。オレは頭に日本の国旗をたてて歩いた。(一応はげズラも用意してたが、妻に大反対された)
ランチは日本食、妻の手作り。アリスンに喜んでもらえた。
アリスンと妻はベストフレンド。何度メールのやりとりをしただろう。
このメールによって、妻の英語力は向上していったのだ。
ちなみに、始めてアリスンにだしたメールの一番最初の言葉は、「Hello」こんにちは、でなく「hell」地獄!!だった。
これに比べたら相当の上達だ。
別れは辛かったが、これからも連絡だけは気軽にとれる。
つたない英語とメールがあれば。
5月22日~5月31日
この頃から、またもや食欲がダウンしてきた。
食品のCMで、とてもおいしそうに食べる俳優を見て。
すげーなーと感心してしまう。
今オレは、世界一まずそうに食べる男かも知れない。
眉間にしわを寄せ、苦悩と煩悩を振払うがごとく鬼の形相。
唇からはウゥーと獣のような唸り声。
この男は何に耐え、何と戦ってるのだろう?
近付いた人は驚くだろう、彼の目の前にはおいしそうなオムライス。
彼はオムライスと戦っているのだ。
しばしオムライスを凝視、そして空しそうに頭を大きく横にふる、「だめだぁ」とため息一つ。
彼はオムライスに負けた。
とまあ、こんな感じの毎日で、ジャムパンと栄養ドリンクで生きている。
もちろん妻は大激怒である。「食べなさい!」と叱られる。
いつのまにか「食べろ!」「食べない!」で大喧嘩。
「わかった。ごめんよ」と一口三口。「やっぱ食えない」で妻あきれる。
こんな毎日だった。
この頃の体調は。
肝臓も腎臓も血液データではほぼパーフェクトだった。
カリウム値が高いだけで、それを下げる薬を飲んだ。
ベイラー往復が徒歩で平気になった。(1キロくらいかな)
体が感じる問題は多々ある。
腹部の痛み、手足のしびれ等。
そういえば、しゃべるのもしっくりこないし。集中力もまだないか、、、、。
文章考えたりしてるだけで疲れてしまい、キーボード叩く前に、ベッドに行ってしまう。
でも大丈夫。
痛みは薬で止めて、残りの気になることも医師が口を揃えて「平気だ」というので、それを信じている。
でもまだ拒絶反応に怯えているところはある。
一番の問題は食欲だ。
そして、5月31日はオレの誕生日だ。
翌日の6月1日は日本で待つ息子広空(ひろたか)の誕生日。
ダラス時間の31日PM8時に息子に電話した。
日本では、時差があるから6月1日の朝10時。
ダラスは31日日本は1日。
時差に感謝!日本-アメリカ同時お誕生日会。
言葉を交わしただけだが、不思議な気分だ。
ちなみに広空(小2)には、意味が通じてなかった。