ここから妻の日記↓
12/1(Wed)
あらまあ、今日はアメリカ時間の誕生日です。
なんか得した気分??
パパが朝一で、『おめでとう』と言ってくれました。むふふ。
31歳=女の厄年。や~っと終わりました。
32歳は飛躍の年でありますように。パパにとっても!
夜、Aさんがわざわざ家まで、薬を届けてくれた。私が悪いのに、ひたすらあやまってたAさん。
大事な薬を忘れどこかぬけてる私。昨日にひきつづき、無能な自分に腹がたってしょうがなかったな。
テレビでは、もうクリスマスのイベントをやってた。ツリーのライトがいっせいにひかって『わあ綺麗』と思ってたら、そんなレベルを越して、まったく『木』が見えない状態になってる。
『ツリー???か??』
我が家では片付けの事を考えて、ただステンドに何か飾り付けをするだけに。
日本の狭いアパートで暮らしてたころは、中くらいのツリーがあった。
飾り立ての頃はいいけど、クリスマスが終わり、正月を迎え、桜が咲き始めてもなおツリーは押し入れの息子の部屋(?)の中に、飾って?あったな。
絶対うちだけじゃない、と思う。(押し入れの部屋はうちだけ)
パパは……..。変わらずの腹水で、丸橋先生から連絡があり、またしても利尿剤がSTOP。
腎臓が弱っているのか、とにかくこのままじゃ苦しいので、来週、またドレーンで、腹水を抜くことになった。
12/2(Thu)
昼間から熱が下がらず(華氏103度)ブレンダさんに電話。診察を急遽いれてもらう。フラフラになりながら、病院へ。
急きょ腹水を抜くことが決まり、ドレーン室へ移る。丸橋先生もかけつけてくれた。
お腹に針を差す。
痛いのをじっとこらえるパパ。
『いてててて』と『ペイン!ペイン!』がまざって叫ぶ。
局部麻酔をしているが、やはり痛いらしい。
我慢するパパ。
その甲斐あって、お腹もだいぶ小さくなりました。
車を呼び、家へ戻る。
お腹がすいたというので、少し早いけど御飯を食べる。お腹も小さくなって、食欲もでてきて良かったなと一安心も束の間、パパが、頭痛がすると言い出した。
そして、「ぐぉごほっ」と気持ち悪そうに咳をし、その場で吐いてしまう。
だ液にまじった吐血が……。
私は、頭の中の血の気が下がってしまった。
(えっ!吐血!?)
丸橋先生のポケベルを鳴らす。
下のロビーが開いてるので、階段を猛ダッシュで駆け降り、テレサさんに向かって大声で、
「HELP! Please call to Sequlity ! My housband is vamited blood!」(大変!吐血した)と叫んだ。
部屋に戻り、パパの着替えを手伝い、Baylor へと向かう為、車に乗り込む。
ERにつくとまずは受け付けだ。
持っていった吐血した物を見せて、受け付けを済ます。
その後、丸橋先生が来てくれ、パパと一緒に奥の部屋へ。
私はもう一つの受け付けをすませ、パパのところへ戻る。
結局その後は吐血はしなかったが、スコープで覗くまでは油断ができないので、様子を見る為というのと、腹水が感染している恐れがあるので、培養検査をし、もし感染してたなら、抗生剤投与のため入院となる。
いつまた破裂してもいいように、今日はICUなので、私は帰ることにした。
12/3(Fri)
朝、病室にいく。
目は覚めているがなんとなくぼーっとしているパパ。処置は昼間頃と言うことで、それまで禁食、禁飲で点滴のみ。
午後2:30頃、処置室へ移動。検査室には私は入れないので、先生に一言お願いし、控え室でまつ。
3:30頃丸橋先生が来てくれ、
『胃の中に血は残っていなかったので静脈瘤は破裂していなかったのでは』
『危ない箇所を4~5箇所処置した』
『腸は綺麗だった』と簡潔に説明してもらい、
『まだ麻酔が覚めていないのでもう少しまってて』と言われた。
30分後、OKがでて、パパの所へ行く。
まだ麻酔が完全に覚めていないので夢うつつだけど、無事に終わって良かった。
一時間で飲み物などのOKがでて、早速コカコーラと、丸橋先生に昨日頂いたのになかなか口に入れられなかった『くろあめ』をほおばり、食事もスープ、プリンなら大丈夫というので、買いにいく。
ところが一口あげようとしたら、看護婦さんとんできて
『No!!』と、『私がもってくると言ったの!あなたは買う必要無い!』
と怒られてしまった…..。
とんだ勘違い。
今日もまだICUなので、帰宅。
ひろくんには余計な心配をかけたくないので、パパの入院は隠すことにした。
あの子は『吐血』には異常な程敏感になってしまうのだ。
12/4(Sat)
今日は昼間、14階の丸橋先生のいる外科の一般病棟に移ったので一安心。
前から日本食の食料品店に連れてってくれるとAさんと約束があり、パパの状態も安定しているし、退院してからの事を考え、行くことに。
3時くらいに迎えに来てもらい、パパの所へ御用聞にいく。何か欲しいものは?と聞くと、
『大きい靴下』という答えがかえってきた。
足がむくむし、しかも冷えるのだが、26センチの靴下だときつい。そこで、30センチのアメリカンサイズの靴下を買うことになった。
結局、日本食、韓国フード、モール、ショッピングセンターとお勧めの所を案内してもらい、切れてたお米も無事入手し、退院後はこれでOK。
でも少し遅くなってしまい、パパの病室にAさんと戻ったのが10時頃。
パパは、はんべそ状態でしたが、買ってきた『あんぱん』に目を輝かせ、おいしそ~に食べてました。
お忙しいなか、こんな遅くまでおつきあいしていただき、感謝感謝です。
パパは腹水の他に腎臓にも問題があるようで、腎臓の専門の先生に見てもらうことに。
12/5(Sun)
お昼はおにぎりをにぎり、厚焼き卵ときなこもちを持って病室へ。先生の奥様も来てくれ、差し入れはチーズケーキ。生クリームたっぷり。
パパの目が笑ってる。
しばし話がはずみ、なんだかんだと四時ぐらいまでいてくれた。
パパは朝の10:30から、24時間の畜尿検査。他にもカロリー計算もあり、内科にいたときとちょっと違う。
病室の壁、鏡などにそれらの紙が貼ってあり、測定した数字をそれぞれの担当の看護婦さんなどが記入していく。
夕方、『バックトウーザフーチャー』をやってた。しかも『Part2』。
パパは『映画のくせに、”つづく”はひどいっ』と一言。
”3”もやるかな?という期待は見事にはずれ、いじけ気味のパパさん。
実はこれ、パパの大好きな映画のひとつ。ははは。
12/6(Mon)
朝、クリッピン先生が回診にきてくれる。やっぱり、顔を見ると安心する。あの名文句がでるかな?と期待しながら、話を伺う。
腹水の大きさを見て、ぬかなくても今日は大丈夫ということと、抗生剤も後少しで終了とのこと。そして……。でました!!
『May be. 2or 3day go to twice blessed house!』
この一言が聞きたくて……..。
『たぶんあと2~3日でアパートへ帰れるでしょう。』
入院患者は誰でも待ってる言葉ではないでしょうか?
しかも先生は毎日念を押して言ってくれる。
パパもほっとした様子。
その後一端家に戻る。
この間に、パパの所には腎臓専門の先生が来てた。話が分からないので、日本人の他の病院(?)の先生に電話で通訳をしてもらう。
この先生は腎臓の先生と同僚らしいが、詳しい話は聞けなかった。
午後にはいろんな人が面会に来る。
ボランテイアのおじいちゃん、チャペルのおばあちゃん、そしてアリスンさん!
心配そうに眉間にしわをよせ、『I’m sorry. Feeling OK?』と相変わらず優しい英語でパパに話し掛けてくれてた。
そういえば、アリスンさんに英語のレッスンを受ける予定だった。
退院したら、ぜひ、お願いしよう!
アリスンさんがいるとき、丸橋先生も来てくれた。
栄養士さんが相談に来た。
あまりにパパが病院食を食べないので、何か手はないかと色々質問をしてた。
でもパパは口の中が荒れているらしく、舌も変なようで、味が変わってしまうらしい。
少し食べると腹水のせいで、食べれなくなるので、一日5回くらいに分けて食べると良いというが、それも今のパパには無理のよう。
とにかく、栄養剤を飲むように進められた。
栄養士さんもいろいろ考え、病院食を出してくれている。
夕食は、パパも悪いなと思ったらしく、食べるぞ~と意気込み蓋をあけたら…..。私にはおいしそうに見えるビーフストロガノフ。
ところが、パパはハヤシライスが大嫌い。
………なかなかうまくいかないなあ。
でも頑張って半分食べてた。(これが限界)パパえらいっっっ!
夜に帰宅。
やっぱり来てた。足利からの荷物。ひろくんの写真も入ってる。そして、河崎さんからビデオが届いてた。
足利からの荷物は、留守だったためオフィスにあずけてある。多分パパの喜ぶものばかりだ。
パパは極度の寒がりで、いつも診察の時など、ジャージにトレーナーを着ている。今回も本当は患者専用の寝巻きを着なくてはいけないが、これがまた凄い寝巻きで、お尻がぺろんと見えてしまう。
パパはジャージを着込み、スエットをはいてた。
案の定、看護婦さんから、
『1433の日本人は着込み過ぎて熱を計ったら101度あり、脱いだら、99度に下がった!もう少し薄着をしなさい!』
と怒られたらしい。
パパは、「凍死する」と言って、このパジャマに着替えない。ジャージにトレーナー、きっちりファスナーも閉めている。
しかも、入院以来、毎日着ている。本人も、これは不潔だと感じたのだろう、今日はその寝巻きに着替え、ジャージももって帰ってきた。
それを洗濯しているとき電話が鳴った。
パパかな?と思いながら受話器を取ると先日偶然お会いした、日本人の歯科医でこちらに勉強にきているEさんだった。
何か手助けできることはないだろうかと、わざわざ電話をかけてきてくれた。奥様とも少し話をし、日本人の横のつながりがあって、鍋でもなんでもいらなくなったもの(帰国する人などの)をリサイクルしてくれるらしいのだ。
これはとても助かる!
未だに、(どこかにイスとか落ちてないかな……。)などときょろきょろ歩いてる私。
早速お願いしておいた。
買い物とかも連れてってくださるそうですが、何よりも、ここダラスで日本人の方と話す事は本当に心強いものです。
明日パパのお見舞いにも来て下さるということで、お忙しくなかったら、ぜひ!とお願いをしました。
12/7(Tue)
午後、昨日電話をくださったEさんが、一緒に働いている日本人の方と一緒に来訪。
日本食の事や、リサイクルの事、運転免許のことなど、一時間くらいお話しました。
今日は、いらなくなった雑誌やビデオなどをお願いしました。
肝心の腎臓ですが、『糸球体腎炎』の疑いの為、腎生検を行うとの事。始めて聞いた名前だし、この病気がどれくらいの物なのか判断できず、とにかく専門の先生にお願いするしかないなと話した。
パパが入院するとかなり英語を話す機会が多くなる。スーパーなどではいつも同じ会話なので進歩がない。ところが、入院すると1時間おきぐらいにナースと接する。しかも、毎回違う指示だったり、質問やお願い事などを話さなければいけないし。12時間おきに担当ナースが変わる。
自己紹介のあと、ボードに名前を書いていく。ナースコールをする時はこの名前を呼ぶとその人が来てくれる。逆に言えば非常事態でないかぎり、他のナースは来てくれないらしい。
パパは、どんな腎臓の検査なのか少し不安のようだが、これをクリアーし、無事退院できるようお祈りした。
12/8(Wed)
10時から腎生検。夕べ、糸球体腎炎の事をネットで調べてみた。
専門のページは専門用語ばかりで理解できないので、肝臓日記のような個人ページを探してみた。
あまり聞いたことの無い病名だが、子供の患者が多かった。母親が闘病日記としてアップしているものばかりで驚いた。世の中には本当に色々な疾患があり、皆病気と闘っている。症状などもわかり、(そういえばパパも…..。)と思い当たることばかりだった。
思ったより検査が長引き、病室に戻ったのは1時くらい。
パパの苦悩の顔をみて、何事かと血の気が下がった。
首に管をつけているらしく、しかも太い血管で止血の為に首に太いテープが貼ってある。麻酔はすっかり覚めているらしく痛みを訴える。
『おじやが食べたい』というので、看護婦さんに家に一旦帰る事を告げあわてて帰宅。
御飯を炊き直し、おじやを作り病室へ戻る。
4時ぐらいだったと思うが、パパの首から血が流れているのを発見する。
慌ててナースコール。
担当のナースが来る間、どこを止血したらいいのか分からず、ただ流れる血を紙タオルで押さえるだけだった。
一応ガーゼを変え、ナースが止血していた。その後丸橋先生と腎生検をした先生が来た。更に押さえて止血。10分程押さえた後、強力なテープで覆った。
本当に強力で、パパは『ヒゲを剃っておくべきだった』などと冗談を言ってはいたが、内心、物凄い恐怖感を持っていたに違いない。
首から血が流れ、止まらないないのだから。
ベットに座る体勢のまま約5時間。首も固定されたまま。かなりきつい体勢で、しかもまた出血するかも知れないと言う不安から、へたに動けないパパ。
かなりの量の出血があったため、血小板と輸血を点滴。
夜中の一時くらいまで、パパの首を見張っていた。ナースも1時間おきに血圧をとりにくる。
12/9(Thu)
7時にクリッピン先生の回診。
今日は退院に対しての答えがはっきり返ってこなかった。退院はのびるかもしれないな。
ふとパパの顔を見ると顔半分が物凄く浮腫んでいる。右の首にはまだ管が挿入されていて、左を向いて一晩寝たせいだと思う。
午後、腎臓のコラーゾ先生が丸橋先生と一緒に回診にきた。そこで思い掛けない結果を知った。
「MPGN(膜性増殖性糸球体腎炎)と思われる。肝臓移植をする場合、腎臓も一緒に移植する必要があるかもしれない。」
という答えだった。
腎臓は今30~40%しか機能していないらしい。
パパからの「腎臓はあとどれくらいもつのか」という質問に、
「2年くらいでしょう」という答えが返ってきた。
もちろんパパは、肝臓が移植しなければいけないほどになっているのだから、聞いても仕方ないことだけど、だいたいの目安で考える為に聞いてたと思う。
私もパパも頭の中によぎったのはもちろん追加になるはずの腎臓の移植費用である。
30万ドルの費用だってかなり無理な金額なのにこの上更に何千万とかかるとしたら、と考えてしまってなかなか病名などの質問が頭の中に入ってこない。
また後で丸橋先生に詳しく説明してもらうとして、先生達は病室からでていった。
なんとも言えない気分で、しかもパパは泣いていた。ナースさんが、心配して私とパパの手を握ってくれている。
それでもなんとか気持ちを落ち着けてとにかく費用の事を聞いてみようと、アリスンさんのオフィスへ向かう。
残念ながら不在だったので伝言を頼み病室へ戻る。
しばらくしてアルスンさんがきてくれ、少し話したが、やはり通訳してもらわなければ(事がことだけに)いけないので、丸橋先生に詳しくは聞いてくださいと伝える。
ところがそのすぐ後に丸橋先生も来てくれて、4人で話し合った。
アリスンさんの答えは、もし、腎移植もということでも、デポジットはこれ以上支払わなくてもいい。
リストが変更になるので改めて検査が必要。
(肝臓のリストからはずれ、肝腎と2つの臓器を待つリストに入ることになる)
腎臓はとるのではなく1個増えて、3つの腎臓を持つことになる。
まだ正式に決まった事ではないが、頭が混乱している。B型ウイルスは腎臓までも悪くしていた。
パパは決して諦めないことを断言し、その意志をアリスンさんに伝えた。後は、救う会に連絡し、相談しなければ。トリオの方にも、決まり次第、相談してみようと言うことにした。
しかし、足利の妹の小百合ちゃんが胆のう摘出手術の為入院中で、来週の月曜日に退院予定なものだから、すぐ話をしていいものかどうか……。
自分の体がこんな状態なのに、しきりに小百合ちゃんの心配をしている。この兄弟は私も見習いたい程、相手を思い遣っている。だから、余計に話しずらいことに違いない。
夕方、パパの浮腫みはだいぶとれた。
アリスンさんがおすしを片手にお見舞いに来てくれた。ここのところ食欲ゼロに近い状態だったが、夕御飯を無理して食べた後にもかかわらず、パパのお箸はよく動いてた。
5個ぐらいは食べたかな?アボガドのおすしにはびっくりしたが、以外や以外。トロの味に近いではありませんか。
うなぎもあったりして、パパは醤油をちびちびつけながら、楽しい会話とともに、うれしそうに食べていました。
アリスンさんがいてくれたおかげで今日は精神的に助けられました。丸橋先生もかなり気を使ってくれてました。後戻りはできないんだ。頑張るしか無いんだ。と、パパは自分に活を入れながら、おすしを食べたんだと思う。
アリスンさんに、『富美恵が食え食えってうるさいくらい言う』とパパが話すと、アリスンさんは当たり前じゃ無いのと言う感じで笑っていたが、絶対無理をしてでも口から栄養はとった方がいい。
点滴の栄養に慣れてしまっては、体力が落ちる一方なのだから….。(と私は思う)
アメリカ人なのにおすしが好きというアリスンさん。私達も少しは見習って、アメリカの味に慣れなければ……。でも病気のパパにとっては酷なことなのかもしれないな。
またしてもハプニングだらけの日だったが、良いこともたくさんあった。もうひとつ、マーロックス娘さんから嬉しい便りが届いた。中には、チャンプルーのバンドの方達などの励ましの手紙もはいってた。
パパはベットの上でそれを見ていた。
12/10(Fri)
朝病室に行くと、なんだかたくさん人がいた。
一人は車椅子の横に立ち、もう一人は栄養士さんで、あと一人お初の看護婦さん。何事??とびっくりしたが、なんのことはない。皆それぞれパパに伝える事があって、順番を待っているのだ。
車椅子の人はレントゲンのお迎えの人。栄養士さんは相変わらず何が食べたいのか、聞いていた。プラス丸橋先生も加わって、一気に部屋が狭くなる。好き嫌いの多いパパを何とかしようと必死の栄養士さん。気持ちはよ~く分かる。
レントゲンは膝が腫れている為の検査。これ以上問題が出てこないことを祈るのみ。
夜。久しぶりに喧嘩した。悔し泣きの帰宅。ほろほろ。もちろんパパの体の辛さは分かるが、ここでつまずいていては、移植なんてできやしないと言葉では言わなかったが、態度にでてしまう。
今夜の食事の時だ。
「後で食べれる時に食べるから」といっていたのに、食事を下げに来たナースに「フィニッシュ」と言ったので、
「え??フィニッシュ?」と聞いたら、パパ激怒。
「食えねえっていってんだろ!」
「体が調子悪いのにくえるわけないだろ!」
「…………………………………。」
ここの所、私自身、体力重視であせりがでてしまい、食え食え攻撃でさすがにプッツンきたらしい。
な~んか悔しくて、大泣きしそうになったので、帰宅した。(逆ギレとでもいうのでしょうか)ここで帰った私も悪い。
でもこれくらいの喧嘩でダメになるようじゃ…..というあせり。
昨日はがんばると言っていたのに今日はもう弱音のはきっぱなし。もちろんパパの体が日々違うのぐらい良く分かるが、私の精神力も急に萎えた。
これか。ウェイテイングのつらさっていうのは。
病室の中だけじゃないんだよ。私だって、外でいろいろあるんだよ。と思ってもパパの辛さに比べれば、一割にもならないかもしれないな。
ひろくんに会いたいなあ….。
さすがに心配なのでごめんなさいと電話をした。言わないと明日まで辛いし、後悔するのもいやだし。
その後、ひろくんに電話。
パパに電話して~とお願いする。
あの子の声を聞けば、食欲もでるかな?……とまだ懲りて無い私。というか諦めの悪い私ですが、、、。
ひろくんのバカ笑いと元気な鼻歌で、元気百倍にな~れ。
12/11(Sat)
朝から雨模様。
土曜日だけど今日こそ退院してほしいという願いも届かず。日曜日をはさむので退院は多分あさってになるでしょう。
パパは昼間に良く眠るようになってしまった。夜はなんだか眠れないらしい。熱も夜に出ることが多い。
病室にいてもパパは寝てばかりだし、起こすのも可愛そうなので、本を読んだり、テレビを見たりしているうちに私まで眠ってしまった。
夕方に帰宅。
帰って大正解。
6時ぐらいから激しい雷が鳴りだし、何度も落ちたようなかんじで、外の駐車場の電灯が何回も消えてた。
部屋のテレビや電球もときどきふっとなる。物凄い雷が鳴る。雨も風も半端じゃない。
『へそとられるんだよ~ひろくん』と子供をからかえる余裕のある物で無く、なんだか恐くなり、病院に戻ろうかとも思ったが外で車を待つのも恐いし、病室に電話だけかけた。
パパは14階にいるくせに意外に落ち着いていた。ダラスの中で大騒ぎしているのは私だけなのか??
電気が走りそうで水道などに触れないのはただの無知???
なんだか納得できないが、とにかく明日の朝までにあがりますように。
腎臓の件は、まだ結論がでていない。
土日をはさんでしまったので、退院も明日は無理なはず。でも月曜日にはようやく住み慣れた我が家に戻れるでしょう。
12/12(Sun)
夕べの雨をひきずり、今日もどんよりした空模様。
病室に行った後で、近くのセブンイレブンに洗剤を買いにいく。もちろん徒歩。そこで、思わぬハプニング発生。
なんだか、スパニッシュ系の男性に声を掛けられ、しかも、しつこく後を追ってくる。(自転車を押しながら)
まっぴるまに良い度胸だ!と思ったが、さすがに恐ろしくなり、信号待ちですかさず逃げた。
『チャオー!』と捨て台詞を残し、彼は去ったが、本当に恐かった。
言葉は解らないし、腕に入れ墨してるし、ニコニコしてるが、いつ何が起こるか解らない状況で半分固まってた。
明日は退院できるでしょうか?
点滴も無く、体の調子も大分良くなったせいか、ベットの上でじっとしているのが我慢できなくなってきたようだ。
余裕がでてきて一安心。
12/13(Mon)
パパから朝はやく電話がかかり『十中八九退院だい』とのこと。
迎えに行く支度をしてたらまたまた電話。
『……..。今日だめだ。夜の熱が問題でもう一日様子を見るんだってさ』
思いっきり声が沈んでる~。
病室につくと、毛布から目だけ覗かせていじけているパパ。ひろくんを思わせる。まあ、首の管もまだ取れて無い状態なので、管をはずしてすぐに家に帰るのも心配だから、一日の我慢、我慢。
それよりも腎臓の数字が良くなっているらしい。
今の段階では、移植は考えなくてもいいという。が、何分、パパと先生だけの会話の話しなので、丸橋先生に詳しく聞くまでは、足利に連絡しない事にする。
このまま腎臓が回復して欲しい。
万が一回復しないと言われても、お医者さんに予知できない程の生命力をパパは持っているのだから、きっと大丈夫。
現に、そういう奇跡を起こす患者さんは一杯いるのだから。
午後ヘミングさんがお見舞いに来てくれた。そしていつものようにパパの話をゆっくり聞いてくれた。そしてパパと私の為に祈ってくれた。
看護婦さんも心配してくれていて、
「Healing in the name of Jesus」と、手をとり、一緒に祈ってくれる。
目をつぶりながら願う。
「パパがおいしく熱々の日本食を早く食べれるよう退院は明日。お願いします」
それでいいのか?!とパパは笑うかもしれない。
気のせいかもしれないが、尿のビリルビン色が薄くなったような……。
血の沈澱も無く、腎臓からの出血が無い証拠でしょうか。
ひとつひとつ良くなる喜び。
またいつ悪化するかわからないが、少しづつクリアーして、いざ移植となった時に万全の体勢でいられるよう、退院後も気を抜かず頑張らなければ!
ここまで妻の日記
今回の入院まとめ
退院しました。
腎臓移植については、Dr.Crippinが言うには、「多分、大丈夫。いつか必要かも」といったところでしょうか。
今回の入院の話しです
入院は吐血から
腹水が小さくなると、圧迫されていた胃が開放され食欲も少しでてくる。久しぶりにいい気分で夕食が食べれそうだ。昨日は妻の誕生日、なにもしてあげられなかった。
「今夜は、豪華に誕生日カレーだ!!」
と勝手に決めるオレ。カレーはオレの大好物である。
ただ最近、自分の食欲が、自分自身で信じられないところがある。食べてみたら、ダメだったといったこともあるから。
カレーなら絶対に食えると思ったんだ。
半分くらいカレーを食べたろうか。いつものカレーだ。だが、食が進まない、スプーンが止まってしまった。下をむいてじっとしている。
妻が少し、怒ったような不安そうな声で聞いてくる。
「もう食べられないの?」
吐き気を押さえているのだ。こんなはずはない、、、、、、。
(カレーすら食えないのか!?)
これはショックだった。
我慢しきれず、吐いてしまった。そして、そこには血。
(えーーーーーっ!!)
である。
今日、緊急に診察してもらい、おまけに腹水を抜いたばかりである。その上、吐血かよ!
妻にマグカップをとってもらい、そこに血を吐く。
妻が電話してる、どこかに駆けてゆく。
オレは椅子にすわって、吐き気を待機している。アパートのオフィスのテレサさんがやってくる。心配そうな顔をこちらに向ける。
とにかく、着替えて車にのる。
ERは大混雑していた。
受け付けに普通に歩いて行く。
「すいません」
「一分待って」
もちろん、英語での会話だ。
アメリカで一分待ってなんていわれて待ってると、平気で10分20分待たされることがある。いかんいかん、もっと積極的にいかなければ。自分を伝えねば。順番のおばさんをさえぎり、声を少し大きめにして、
「吐血したんですが」
そして、カップの血を見せた。
受け付けのおばさんの顔色が変わった。すぐに中に呼ばれて、血圧、脈、体温など計られる。ストレッチャーが運び込まれ、そこに横になる。
黒人二人が陽気にラップのリズムで、オレを運んでいく。会話はてんでわからないが、明るい気分にさせてくれる。
たどりついた部屋は3人部屋。
(あれ?個室じゃなんだ)
と思ったら、看護婦が24時間見張っている。
プレICUという部屋らしい。
プレICU
人前でうんちしたことありますか?
とにかく、強い下剤を飲まされつづける。胃と腸にたまった血液を排せつするためだ。
もう大変。恥ずかしいとか、そういう次元ではない。排せつするたびに(ほとんど水なのだが)体が軽くなる気がする。
翌日の昼近く、内視鏡で検査。
静脈瘤の処置。破裂はしていなかったらしい。どこから血が出たんだろう。胃も大丈夫みたい。
一安心である。
結局、輸血は3本くらいすることにはなったのだが。
退院ははやそうだ ~忍び寄る黒い影~
これは、退院は早そうだとたかをくくっていた。
一般病棟に移ったのだが、内科病棟ではなく、移植外科病棟。
これは、丸橋先生のいる病棟だ。病院側が気を使ってくれたのだ。
ある朝、見知らぬドクターが部屋を訪れた。腎臓の先生で、Dr.コラーゾ。腎臓のエキスパートの先生だ。
軽い問診は、一問目で頓挫した。ウ、ッッ言葉の壁が、、、。
どうしようと慌てていると、先生がどこかへ電話している。
「オー!ソーイチロー!」などと親しそうに会話をしている。
先生の友人に日本人医師がいて、彼に通訳を頼んでいるところだ。
その、そういちろうさんと電話をかわる。
「B型肝炎の母子感染のこと」
「肝硬変と知ってから2年のこと」
「肝臓移植を待つ為ここに滞在してること」
「今まで、大きな手術は盲腸、アレルギーなし」
と、一通り話す。
Dr.コラーゾは満足げに、そういちろうさんに礼を言うと受話器をおいた。
ひきつづき、触診である。胸、背、腹と聴診器をあてられた。とにかく、今は歩くなと指示がだされ、ベット上安静になる。
その日はコラーゾ先生は、これで帰っていった。
翌日だったろうか、人の気配で目がさめる。朝の9時くらいか。なんだと思ったら、車椅子をもった黒人のおばさんが立っている。そして、オレに乗れと指示する。どこにいくかしらないが、断わるわけにもいかない。いわれたとおり、車椅子に腰掛ける。
エレベーターで1階におりる。
検査室の密集しているフロアに連れていかれる。なんの検査かとおもえば、エコーの検査だ。音波で画像をつくりだす検査。
ベットで横になって、30分くらいかけて、たっぷり検査をした。
今回は肝臓だけでなく、腎臓も検査しているのだろう。
オレは腎臓は、左脇腹のほうに2つくっついてあるもんだと思ってた。理由も根拠もないが。
全然違うらしい、肝臓の右側の後ろに1つと、体の左に1つあるらしい。調べてないので、詳しくはわからないが、、、、。
検査が終わり病室へ。
はたして、この日だったか、記憶が定かではないが、Dr.コラーゾがやってきた。そこで、なにやら難しい話をはじめた。
オレは会話を途中でさえぎり、まったくわからないと伝えた。
ここでまた、そーいちろーさんの出番である。
この人は、やはりテキサスで、医療の研究をしている人らしい。御迷惑になるといけないので、詳しいことは聞かなかったが。
通訳の内容はこうだった。
明日、腎バイオプシーをします。腎臓から一部の細胞を接種して調べる検査です。これは、あなたにとっては必要な検査です。ただ、あなたは血液がとまりづらいので、多少の出血があるかも知れません。
それでも、やりますね?
検査をするのであれば、同意書にサインしてください。という事だった。
Dr.コラーゾにOKをしてみせた。彼の白い歯がこぼれる。彼と2言3言言葉を交わして別れた。
「byーby」とオレ。
「good luck」
「、、、、、、、」
ちょっと、グッドラックってやだな~。
その日の夕方、血液検査をしに一人の男が入ってきた。普通の検査と違う。腕を少しだけ、傷つける。そこから出血するが、これが何分で止まるかはかるのだ。
通常の人で5、6分だそうだ。オレは9分かかった。別に気にしてないもんね。肝硬変なら出血傾向があつてあたりまえだし、血液凝固因子も少ないんだからあたりまえ。
それほど重大な事には、見えなかった。
夜、看護婦さんがやってきて同意書にサインさせられた。
翌日の朝。
またもや、昨日の血液検査である。
(なんどやっても、同じだよ、、、)
と心の中でブツブツいいながら、針の穴だらけになった腕をさしだす。
一瞬だけ痛みを感じる、カッターの先で1mmくらいの傷をつけられる。
血が溢れ滴になると、紙でそっと吸い取る。そしてまた血の滴ができると、紙で吸う。
この繰り返し。
普通の人なら、5、6分で血の滴は小さくなり、吸い取るたびに出血は治まっいく。
オレの場合、いっこうに衰える気配がない。ストップウォッチが10分をまわる。タイムオーバーである。血が止まらない人ランキングのトップ入りをはたしてしまった。
ものすごく、嫌な予感がする。
日本から持ってきた検査の本とかみると、背中から針をチクンと差して、ハイ終わり。
そんな簡単なことが書いてあった気が、、、。
おかしんだよな、、、、?
コラーゾ先生とかも、腎バイオプシーはね、と説明するときに、ゼスチャーで首から入れる動作をするんだよな。
オレが背中から入れるゼスチャーをすると、通じないんだ。
なぜ?腎臓の細胞をとるのに、首からなんだ?
もしそうなら、どんな長さの棒だか針を差すつもりなんだよ~~~。
もう体は半硬直状態。
病室には数人のナースがやってきて、オレの体が点滴だらけになる。まず、血液を止まりやすくする為に血小板。そして赤血球。そして、いよいよストレッチャーに乗せられて検査室へゴー!
一回にある検査室へ通じる通路で、しばし待機。ここでも点滴も針を増やしてもらう。
オレは、検査だと聞いていたから、スタッフ2、3人でこじんまりとするのかなと思ってた。
とんでもなかった。10人ほどのスタッフはみな手術着に、帽子をかぶっている。
オレは検査を受けるんだよな~。
それにしては、物々しい。しかも皆、オレに気を使って話しかけてくれる。
「お前はコメデイアンか?」
カルテに書き込んであるのだろう、この質問は必ずされる。
「アメリカンジョーク知ってるか?」
「もちろん知ってる」
喜ぶアメリカ人。
「そうか!何か話してくれ」
「オレは英語がしゃべれない」
これで、全てごまかしてしまう。
あとは、オレの知ってるアメリカ人のコメディアンの名前をだしたりして。とにかく、皆がオレをリラックスさせることに必死なのだ。
準備ができて、処置室へ連れていかれる。まず大きな部屋の中を横切る。この部屋は、クリスマスの飾り付けがきれいにされている。
そして、廊下、一番置くの部屋が観音扉になっている。そこは、クリスマスプレゼントの箱が真ん中から割れるように、デコレーションしてある。
おれは、このプレゼントの箱を押した。
中は、手術室という感じではなかった。軽快なロックが流れ、それに合わせて陽気な白人が踊っている。
オレはかなりの緊張で、顔面硬直してた。
ストレッチャーからベットにうつされる。体全体をビニールカバーで包まれる。
首は大きく右を向いていろと指示をされる。やはり首から、何かを差すようだ。
首から腎臓まで、途方もない長さだ。考えただけで、めまいがする。
ビニールの隙間から、外の様子を少し見る。しかし、作業しているのとは反対側だ。時折、踊っていた白人が顔を覗きこむ。
「痛く無い?痛く無い?痛くないよね?」
懇願する。
大丈夫だと、優しい声をかけてくれる。
実際にオペレーションする、検査技師のおじさんが話しかける。
アメリカのコメディアンは誰が好きか?
ジム キャーリーは好きか?
あっ、好きです。
テレビはみるか?
誰が好きだ?
いつも、サタデーナイトライブ見てます。
そうか、あれは、、
(何かが刺さって入り込んだ!!!)
痛くはない。
痛くはない。
、、、、、うううっ。
、、、、、、と思ったら鈍痛が。
「ぐう、ぐぐぅ」と声にならない声をあげる。
腎臓をこりこりやってるのがわかる。
眠くなるって、誰かいってたのに、、、、。
確かに、一瞬ボーットする瞬間もあるのだが。
時々腎臓をこりこりやられて、鈍痛が走る。
どれくらの時が流れたろう。
全てが終わり、ベットからストレチャー(稼動ベット)に移された。
その時に目にしたのは、真っ赤な血に染まったベットだった。
(あんなに出血してたのか!)
ストレチャーの腰の部分をあげ、座椅子に足の膝を伸ばして腰掛ける形で座っている。
両脇で屈強な男がオレの首を押さえている。
もう大丈夫だろうと、手をはなし、ガーゼと超強力粘着テープで固定する。
5分後、、、、首からまたもや大出血。
これは、もうどうにもならないと、検査の技師が慌ててかけつけ、針と糸で縫うことに。首からは、点滴用の管がぶらさがっている。
いつのまに、こんなものまで入れられたのだ。
とりあえずは、出血はとまった。
病室に戻る。
とにかく喉が乾いた。ジュースを飲んで、少し落ち着く。
妻が、おかゆをつくってくると、一旦帰宅。
その間、首も動かせないし、この座位から動いてはいけない、横になったらダメといわれ、窮屈な姿勢ながらも昼寝。
夕べ眠れなかったので、寝れる。
妻が戻ってきた。
妻はオレの首を見張っている。異変がおきたのは、いつだったろう。
「血が流れだしてる!」
慌ててナースコール。
丸橋先生もかけつけてくれ、検査の先生もきてくれた。
再度、完璧に止血。
そして、このまま動くなと、またもや振り出しに。
結局、左ななめ上を向いたまま朝を迎えた。
思わず、丸橋先生に泣き言を言ってしまう。
「先生、痛かったですよ」
「あっそう。そうだ」
先生は外科医なので、この首の処理をはずすことができるドクターだ。
「萩原さんの腎臓から出血がありそうだったんで、コイルを埋め込んだそうです」
先生が首の処置をはがしてくれながらいう。
「へー、でそれはいつとるんですか?」
「とらないでしょう」
「とらない?一生?」
「はい。ですから、MRI(磁気を使った検査装置)の検査はもうできませんね、とりあえず、検査の結果で退院も決まるでしょう、あと少し頑張りましょう。では、また」
丸橋先生は、次ぎの診察へと消えていった。
悪いニュース
翌日の午後、丸橋先生にコラーゾ先生の一団が部屋に大挙してやってきた。
まずは、丸橋先生が、重そうな口を開く。
「悪いニュースがあります」
それは、あっという間に告げられ、あっというまに去っていた。
「腎臓の検査がおもいがけず悪く、肝臓腎臓同時移植の可能性があります」
この時に、先生は色々と説明してくれた。
しかし、あまりの出来事にそれを冷静に理解することはできなかった。
ただ、考えていたのは、
(もしそうなったら、するしかないよな、、、、、)
コラーゾ先生がいうには、もうしばらく様子を見て、Dr.Crippinとも相談して、最終的な判断をするとのことだった。
皆が部屋からさっていった。妻は窓の外を眺めている。オレは考え事をしているをふりして、正面をじっと見据えていた。
ただ、涙を我慢してただけだ。
(世の中、うまくいかねーな)
一人残っていた看護婦のおばちゃんが、オレの手を握ってくる。
「大丈夫。大丈夫」
ってつぶやいている。
妻に励まされ、看護婦さんにはげまされ、とにかく前に進むことに決め、アリソンさんに相談することにする。
アリソンさんは、移植関係の経理課の課長と、じつは偉い人なのだ。もちろん、肝腎移植の場合の経費等もくわいしいはずだ。
アリソンさんは、何も心配するなといってくれた。
とにかく、今の時点でデポジット(前払い金)の追加請求はないとの話しだ。
すべては、元気になってから考えればいいと言ってくれた。
とりあえず一安心である。
夜、妻と二人、会話もなくボーッとテレビをながめていた。
ウェイティングは伸びるのか?とすればどの程度。
手術の成功率はどうなのか?
そもそも肝臓が、そこまで持つのか?
考えてもきりがないことばかりが、頭をの中でうずをまく、、。
そこへ、病室の扉をノックする音。
「、、はい」
妻が、力なく立ち上がる。
オレは扉に背を向けて寝たふりをする。
「グッイブニング!」
アリソンさんだ。
えっ、と驚きベッドの上から振り向くと、手になにかを抱えたアリソンさんが、立っていた。
なんと!アリソンさん。ぼくら夫婦を励ますために、寿司を、差し入れにきてくれたのだ。
「移植は体力、力つけないと。寿司なら食べれる?」
病院の一室で、ぼくら夫婦とアリソンさん、夜更けの寿司パーティが始まった。
なんでこの人こんなに優しいんだろ。
寿司パーティでポパイの話しで盛り上がった。ほうれん草を食べて、ポパイは元気になるのを見て、幼い頃、毎日オレはほうれん草を食べていた。
お昼のお弁当には、山盛りのほうれん草のバターソテーである。
くる日くる日もほうれん草、毎日、毎日ほうれん草。しかし、ある日食べ過ぎて、ほうれん草を吐いた。それ以来、ほうれん草を見るのも嫌いになった。
幼稚園の頃の話だ。ふと思い出したんだ。
アリソンさんが、
「日本人は寿司を食べると元気になるか?」
と聞くので、
「それは当然だ!ただ、たまにお腹を壊す」
と答えたら、アリソンさんも笑っていた。
久しぶりに楽しい一時だった。
アリソンさんありがとう!
結局、後日になり腎臓移植は見送りになったのだが。今回の入院で、肝がまた一つ座った気がする。
もし今後、腎機能が停止したって透析もあるし、また移植のチャンスがあるかも知れない。
とりあえずは、早急になんとかしなければならないのは肝臓だ。
肝臓が機能が回復すれば、腎臓もよくなることも多いらしい。
今回は思いのほか色々なことがあり、しかも、みなに助けられた入院だった。
さあ、そろそろ退院だ!
ここから妻の日記↓
12/14(Tue)
ようやく、長かった入院生活が終わる。
クリッピン先生が多忙な為か、退院は午後になってしまった。
処方を出してもらう為にもかなり待たされ、パパの首がのびきってしまった。
ファーマシーまで少し距離があるので、パパにはソファーで荷物番をしててもらう。
ここでも(また)待たされた。処方箋はもちろん保険がきかないので、かなり高い。レジ会計の時も(こんな大金払えるんですか?)という雰囲気だった。
久しぶりの我が家。
思ったよりも帰る時間がかかり、パパは疲れた様子。でも、炊き立ての御飯をおいしそうに食べてた。
夜、少しハラハラする事が起こる。
ソファーで横になってテレビを見てたパパの様子がおかしい。
『富美恵のヒアリングは進歩したよなあ。それに比べてオレは……ふみえを頼りにしてるんだから、お願いしますねえ….。』
ちょっと。いきなり何をそんな。あらたまって。と思ってたが、口には出さず『ふ~ん。』と、聞き流す(照れくさいし)
そして、足利の小百合ちゃんから電話があり、私が話している間に、台所に行って変な行動をとり始めたパパ。
何やらがさがさしたり、冷蔵庫を開けたり閉めたり、水を流しっぱなしにしたり、しばらくたって、お椀とカルピスを片手に
『今日は。ね。退院祝いだから。ぱーっとやりましょ』
と言いながら戻ってきた。
『小百合ちゃんから電話だよ』
と受話器をパパに渡し、私は台所を探りに行く。
(ありゃ??のりと、振りかけときなこが出しっ放しだ。お茶漬けの素もだ)
きなこ….。お椀の中身が急に気になり戻ると、パパは受話器をもったまま寝転がったままぶつぶつ言ってる。
『すいません。ほんとうにすいません。迷惑かけちゃってます』
電話はすでに切れてる状態なのに……。
お椀の中身はすでにからっぽ。すばやい。
その後ベットに戻るが、この後約3時間、パパの独り言が続く。
たまに様子を見に行く。
へんないびきをかいたり、呼吸がおかしかったら即救急車だ!
『ひろく~ん。どこに隠れていんのかな~?』
『そこに誰かいるんでしゅう。一人は恐いからねー』
私はもっと恐い…..。
12/15(Web)
夕べはびっくりしたが、今日理由が判明した。
もちろんパパは正気に戻っている。
寝不足と、睡眠剤の量の違いのようだ。
睡眠剤を5mgのところを10mg飲んだらしい。
入院中は睡眠剤を飲んでいたのに、夜はほとんど眠れなかったらしい。
家に帰って、気がゆるんだせいもあるかもしれない。
しかも、ほとんど記憶にないというんだから……。
脳症とは少し違う感じだったけど、ほんと驚いた。
(わりには、じっと様子を伺って観察してましたが。)
不謹慎かもしれないけど、テープにとっとけば良かった。
12/16(Thu)
昼間スーパーにアパートの車で買い物にでかける。パパは大分調子は良いものの、大事をとって部屋で御留守番。
スーパーはクリスマス一色になってた。
そういえば、今週の土曜日ヘミングさんに、クリスマスの飾り付けが綺麗な家々を見に連れてってもらえるのだ。
アメリカの飾り付けは本格的。ほとんどの庭付きの一軒家はプロの庭師を雇って飾るらしい。
デズニーランドのエレクトリカルパレード(古い?)みたいに。
パパの体調が良ければいいんですが。
夕飯に、えびドリアを作る。
パパには好評。ホワイトソースっておいしいし、自分で作れば塩分無しでできる。
今度はコロッケにしてみよう。(油と闘いながら..。)
ビデオを見てたら、一つ発見した。
バターを自分で無塩にする方法。
早く教えて欲しかった…….。
12/17(Fri)
特になにも無い日。
しいていえば、外が厳しい寒さだったということと、夕飯のおでんがやたらおいしいといって食べたこと。
カツオぶしとゆずと砂糖だけでもおいしい。
ゆずの粉末は、アメリカにいる私にとっては便利な調味料です。
おでんを食べながら、日本のテレビ(ビデオ)を見る。幸せ。ひろくんがいてコタツがあればもっと幸せ。
夜中、外がぴかっと光った。また雷だ。今日はパパがいるので、何となく恐く無い。そうなると、外を眺める余裕がでてくる。
しかし….今12月です。クリスマスの時期に日本で雷が鳴ったら、異常気象とかいってニュースで流れるな。きっと。
12/18(Sat)
夜、ヘリングさん一家にクリスマス名物(?)に連れていってもらう。
パパは退院間も無いので一時間だけ案内してもらうことにした。でも、ここの所沈みがちなパパの良い気分転換になるでしょう。
閑静な住宅街(郊外)では、近所同士でテーマを決め、家、木、庭などを飾りつける。
これがまたデイズニーランドのパレードのようでとても綺麗。
テーマは、絵本、ツリー、世界中の国、そして「エルビスプレスリー」まである。
世界中の国では日本もあり、「謹賀新年」の立て札があった。(笑)
車で約1時間見て回る。
他にも沢山の見物人が来てて、中にはリムジンで豪華に来ている人もいた。今日1日で約10台のリムジンを見てしまった。
さすがアメリカ。
帰りの車の中は賑やかで、ヘリングさんちの4人の子供達が、日本の歌を大合唱。
あんぱんまんなど、とても発音のしっかりした日本語で歌っている。
この子達は6年間日本で暮らしていた。
今度ひろくんがアメリカに来たら、アメリカの小学校に一時間だけ見学させてくれる様、先生にお願いしてくれるという。
凄い話だ。
ひろくんは引っ込み思案だから、どうかなとも思ったが、きっと「ポケモン」で仲良くなれるでしょう。
一時間きっちりだったので、パパはさほど疲れた様子も無いが、大事をとって早めに床についた。
12/19(sun)
ここの所夜になると少し情緒不安定だった。パパは毎晩のように何回も目が覚めてしまう。
それが、夕べからパパの調子が、がくんと悪くなってしまった。夕べは2時ぐらいに何回もトイレにいったり来たりを繰り返していた。
やっと寝たな、と思っていたが今度は4時に咳が出始め、苦しそうにしていたら、1度だけ吐いた。血は混じっていなかったので様子を見ることにする。
その後もお昼まで、何回か寝たり起きたり。お昼に御飯を作っていると、様子が変なのに気付く。
トイレに入ってもドアを開けっ放し、しかも何回も間をあけずに行く。
御飯は一口食べ、すぐ横になってしまう。そして、しきりに何かを探す。
「何?何探してるの?」と聞いても返答なし。
ベットの上の、布団をぐちゃぐちゃにする。ベットの上に椅子を乗せる。洋服をそこら変にばらまく。
「恐い、恐い」としきりに、何かに怯えてる。
「小悪魔がカルテを持ってきて、移植の時間ですよと言うんだ」
幻覚も見ているようだ。
ついに、洗面所に顔を伏せたまま、朦朧とした状態。
「ふみえ~もうだめだ…」
「どうする?大丈夫?丸橋先生に連絡する?ER?」と声をかける。
「どうしょう~」
判断力もなくなっている。
とにかく、丸橋先生に電話することにする。
先生に、今日は日曜日だし、ERに行ったほうがいいと言われ、セキュリテイーに電話した後、パパの支度を手伝う。
この間も、靴下をはいているのに「靴下はどこだ??」と言うし、セキュリティーが迎えにきて、
「車が来たよって」言ってるのに部屋の中をウロウロ。
ERは2回目なので、だいたいの流れがわかり、今回はスムーズに受け付けを済ます。
奥の部屋に通され、診察を待つ。丸橋先生も来てくれた。
だんだん時間が経つ内にパパが平常に戻ってきた。そういえば、おかしくなっている時トイレに何回もいってた。
便の方もかなりでていた。(流さないのでチェックができる)
それで脳症が少しは良くなったのだろうか??
血液検査をし、血圧(98/48)、熱、脈拍を計る。
「帰宅してもいいが、ラクチュロースを飲むように。ラシックスはStop。そして、明日Dr.Crippinに電話すること」と指導される。
もちろん英語が通じず、電話での通訳で会話をする。
今、夜の9時。
ラクチュロースの威力によって、パパの体から、毒が抜けていく。
意識もしっかりする。
パパに、ゆうべからの行動を話すと、かなり驚いている。
ただ、ところどころ記憶があるらしい。
とにかく「死ぬ程、気分が悪かった」らしい。
12/20(Mon)
朝、早速ブレンダさんの所に昨日の事の報告と診察予約のお願いに行く。
パパは夕べよりもかなりしっかりとした口調。
12時にアパートの買い出しに行く。今日は白人のおばさんと一緒。初対面で、しかも聞きづらい英語なので少し疲れた。
途中お腹が痛くなりあせったが、アルバーソンにトイレがあったので助かった。しかし、何時まで経ってもアメリカのトイレには慣れない….。
夕方、ひろくんへのクリスマスカードを送る為、ポストオフィスに行く。
カードの他にもうひとつ、「石」も送りたいので、包装せず、そのまま持っていって説明したら大笑いされた..。
(日本にまだ荷物らしき物を送ったことがないんだからしょうがないじゃ~ありませんか。)
という心の叫びは却下され、
「1階のファーマシーに袋が売ってますから」
とクールに言われた。
とりあえず、カードだけでも送る事にした。
「石」というのはひろくんお気に入りのうちの一つ。そのへんに転がってる石でもあの子にとっては宝物。(のはず)でも、「クリスマスにいし~??」と言われそうだけど。
一応、箱は可愛いサンタさんの絵がかいてあるのでよしとしよう。
今日パパは、ビデオ「なんでそうなるの」(「ど~なってるの」じゃあない。を見て、ケラケラ笑ってた。
12/21(Tue)
冗談を書ける状態じゃなくなってしまった。本格的な闘病日記のはじまりのサイン。
「体内のアンモニアによる肝性脳症悪化=昏睡状態」
3月の大吐血を思い出す。
おとといあたりから兆候はあったのに、何もできずそのまま意識不明。
夜中に何回も咳き込む。
様子がおかしくなり初める。
バスルームで動かなくなってしまった。
立ったままの姿勢をくずさず、でもふらふらしている。
私の力ではどうしようもない。
後ろには壁、前には便座、横にはバスがあり、かなり危ない。
そのせいで、ERに連絡するのが遅れてしまう。
(電話が遠い場所にあった為)
警官4人。救急隊2人。
皆でパパの事を移動させる。その間、私は病状などを説明した。
ERはおとといも行ったので、受付はサインのみ。
尿道に管を通し、鼻には細い管が入る。(吐いたものが器官に入らない為)
目は閉じっぱなし、たまに開けても目の色が違う。
黒目と白目が混じった感じ。
丸橋先生は手術が入っていたので終わり次第来てくれた。
説明によると、明日になっても昏睡が続くようなら、ステータスAに変わる可能性大で、リストのトップになるかもしれないというのだ。
、、、気分は物凄く複雑。
意識は回復して欲しいものの、移植がすぐできる位置である事も勿論望んでいる。
肝機能が悪くなっているのは事実であり、もし明日回復しても、また同じことを繰り返すのはパパにとっては、かなりの精神的不安がまた続く事でもあるのだ。
今度は本格的なICUなので、面会時間が制限されている。
もちろん時間内なら、診察または検査中でなければ、何度でも面会KOK。
昨日から一睡も出来なかった私は、看護婦さんの心遣いで、家に帰り休むことにした。
何か少しでも変化があったら連絡をくれるそうなので少し安心する。
夕方はAさんが通訳兼、お見舞いに来てくれた。パパの状態は落ち着いているそうだ。
私の「ひろくんにもうすぐ会えるからね」の問いかけに、パパが少し反応した!!
明日もひろくんの事をたくさん話そう!!
そして、パパは意識が戻った時なんて言うのだろうかと考えながら、今日は寝る事にする。
神様、もし今夜電話が鳴るなら、良い知らせだけにして下さい。
12/22(Web)
am9:00 ICU パパは少しの反応は示すが無意識的な感じ。たまに目を開けるが焦点は会っていない。
am9:30 ICU アリスンさんが来てくれる
アリスンさんも「何故こんな…」と苦痛の顔でパパに問い掛ける。
pm12:00 丸橋先生の奥様が来てくれる。
1階のカフェでサンドイッチを食べる。
pm2:00 アリスンさん来る
pm3:00 ICU 血圧98/45
pm4:00 インターナショナルサービスの人が来る
誰かに電話をしていた。そのすぐ後にDr.レビンが来て内診。
丸橋先生と一緒に意識レベルを見ている。
ステータスを上げるかどうかの最終判断らしい。
pm5:30 Dr.クリッピン来る。
ステータスはHighだと言う。トップなのだろうか。
pm5:30 Dr.レビンから、今の萩原正人の状態と、ステータスAのトップに上がった事、だが明日など、ドナーが見つからないまま意識が戻れば下がるが、それでもかなり順番が繰り上がるであろう事を聞く。
意識が戻ってほしい、でも移植するために渡米しているわけだから、なんとか早くドナーが見つかることを祈る。
待ちに待ったトップ。
でもパパの意識がないまま手術が行われるのは予想外だし、やりきれない気持ちで一杯になる。
丸橋先生の通訳によりだいたいの事は理解できたが、思わず大泣きしてしまった。
(これぐらいで泣いていたんでは移植を乗り越えられないぞ)
とDr.レビンに思われたかもしれない……..。
pm6:00 足利に電話。
pm7:00 お父さんに電話。
pm9:00~12:00 メールチェックと移植マニュアルを再度読む。
12/23(Thu)
am5:00 足利から電話。
ドナーがでたという電話かと思い一瞬動揺。
パスポートの手続きと、航空券が入手できた事を聞く。
am6:00 輸血を始めたいのでサインが必要。との事。
電話でもOKと言うことだったのでもちろんOKをだす。
am9:00 病院へ戻る。
am9:30 パパはまばたきはするが、相変わらず目はうつろ。
鼻から管を入れて栄養ドリンクを注入。
痛くないのだろうか….
am10:00 ICU 血圧112/68
アリスンさんから大きな籠に日本食と果物を詰めたお見舞いを頂く。
かなり意識は戻ってきている。
am10:30 ヘリングさん来る。
お祈りをしてもらうが、その途中パパが苦痛な顔をし、泣き出す。
意識が確実に戻りつつある。
pm12:00 昼食サンドイッチ。一人でもそもそと食べる。
pm13:15 アリスンさん来る。
ウェイテイングリストについて聞くが、詳しい情報は解らないらしい。
pm16:00 アリスンさん来る。
ICU 血圧133/70
pm17:00 アパートに荷物が届いているという連絡があり取りに帰る。
ジョナサンのKさんからで、ジョナの皆からのクリスマスカード。
懐かしい面々が皆励ましてくれている。
そしてKさんから温かいプレゼント。
パパの為に大きい靴下と、私の為に長めのスパッツ。
こんな心遣いがとても嬉しい。
pm17:30 ICU 面会は18:00までなので慌てて行く。
パパは問い掛けても応答なし。
pm18:00 今日こそドナーが見つかりますようにと思いつつアパートへ戻る。
pm20:00 由美子から「正月用の荷物はとどいた??」などと、暢気なメールがきたので、慌てて電話を掛ける。
掲示板を見ていなかったので、知らなかったとの事。
12/24(Fri)
am12:30 丸橋先生から連絡。
今、萩原さんの肝臓をとりに行くと連絡が入った。ただ、まだ適応するかどうかは解らないので、正規の連絡が入るとしたら、am3:00ぐらい。手術が行われるとしたら朝方の8:00ぐらいです。
もし連絡があったら承諾書のサインをしなければならないと思うので、ICUへ行ってください。
手がぶるぶる震え出す。どうやっても止まらない。
でもまだ決定では無い。
足利に連絡をしつつ、3時になるまで眠れず、部屋の中を意味も無く歩いたり、サイレンの音がすると外にでたりと、なかなか落ち着けない。
am4:30 やはり、適合しなかったのだろうか?
でも、あきらめきれずしばらく眠れず朝を迎えた。
am7:00 丸橋先生の奥様から電話があり、やはり、肝臓と腎臓をドナーから摘出したが、肝臓はかなり弱っていたので不適合になった。ごめんね。はぎちゃん。
申し訳ないなんて、こっちこそ……。先生も奥様も、私と同じように眠れない夜だったらしい。
なんのその。
次のチャンスを待つ。ただ、待つしかないのだ。
am9:00 ICU 血圧131/80
問い掛けると顰めっつら。
「明日ひろくんが来るんだよ。」と言うと目を少しだけ開けまたすぐ閉じる。
足にも動かないようにとヒモで固定されている。
清式をしてくれるというのでウェイテイングルームに戻る。
入れたてのコーヒー(待つ家族の為に置いてある)を飲む。
am10:15 感激。
うつろうつろと眠っていると丸橋先生が声をかけてくれた。
そして後ろのエレベーターに見たことのあるドクターが立っている。
回診なのだろうか?
後で良く考えたら、クリントマーム先生ではないか!!
野村さん書の、「輝いてもっと輝いて」にでていた、ロバーツ移植チームの一番偉い人。
本の写真と全然変わっていないので、とても不思議な感じだった。
(あの人がパパの移植手術を……)
am10:20 ICU 右肩を必死に上げ、動かそうとするが体が思う様に動かないらしい。
頭の中では動け動けと命令しても手まで届かない。
金縛りのような感じなのだろうか?
am11:00 ヘリングさんがファミリーで来てくれた。
しかも、賛美歌を歌いながら……(日本語)
お子さんは、二人の男の子と二人の女の子。
皆礼儀ただしくて、日本語がとても上手なので、いつも感心してしまう。
pm12:00 丸橋先生がステータスに変動はないと言うので、家で待機する。
pm6:00 面会時間に間に合わず、面会開始の9時まで待つことにする。
pm9:00 丸橋先生から状態を聞く。
「問いかけにかなり、答えている。でも奥さん来てたんだよ、分かってた?」
と聞いたら、首を横にふったらしい。(なに~~??)と思いつつ、ICUに行く。
目は少しはうつろだが、話し掛けるとすぐうなづいたりし、思わず、前回の大吐血を思い出し、安心したら涙がでてきた。
パパの手が弱い力ではあるけど、握り返してくれた。
pm10:00 Aさん、スヌーピーのぬいぐるみを片手に持ち、可愛いサンタの帽子をかぶって登場。
(ああ、そうだ。今日はクリスマスイブなんだ。)
しばらく話しこんだあと、丸橋先生の奥様に電話。
クリスマスイブなのに、旦那様は病院で働いている。
「もう、諦めているの」とは言うものの、内心は淋しいはず。
この話になるとほんと申し訳ないと思う。
移植は予測できずにやってきたりするので、ドクターは大変だし、もちろんその妻もそれなりの覚悟が必要だと思う。
今日もドナーは出たが、A型。
臓器を取りに行く人が申し訳なさそうに話す。
「萩原正人の肝臓は今全力で探している。とにかくwatting!」
pm11:00 ICU メリークリスマス、パパ。
ナースさんもクリスマス返上で働いているが皆明るい。
ICUにはあっちもこっちもクリスマスの飾りで賑やかだ。
パパの部屋のなかにあるナースさんの(?)ラジオから、
クリスマスソングが流れているし……。
(日本のICUには一度も入ったことがないけど、こんな感じなのかな?)
pm12:00 Aさん帰宅。
こんな遅くまで話し相手になってくれたいた。
私は今日は家に帰っても落ち着かないので病院に泊まることにする。
いつもは家族連れで賑やかなwatting roomだが、今日はイブのせいか皆教会などに出かけているらしく、1家族しか居なかった。
渦をまいた滝、必死にひろくんを探すが見つからないというような、不思議な夢を見る。
なかなか寝つけず結局1時間程仮眠をしただけ。
12/25(Sat)
am6:00 ICU 一時家に戻り御飯を炊く。まだ外は薄暗かった。
am9:30 ICU
昨日話し掛けてくれた移植チームのドクターがまた話し掛けてくれた。
今日は丸橋先生が一緒でなかったが、部分部分の単語から、
「まだ見つかってはいないが、見つかり次第すぐ連絡する」
というような事を言ってたと思う。
まだ、ステータスの変化は無いようだ。
am10:15 アリスンさん来る。
パパの意識が戻ったことで「It’s good!」と喜んでくれたが、私の頭の中は、「これで、ステータスが下がるのだろうか」ばかり。
ここの所ステータスばかり気になってしまう。
ちょっと前まではそれ程焦って無く、毎日考える程ではなかったのに。
夢の中まで、ステータスが出てきそう。
am11:30 DFW空港まで、Aさんに迎えに行ってもらう。
ひろくん達は無事入国を済ませ、ダラスの地に足を踏み入れた模様。
私は一旦家に帰り、掃除と昼食の支度を済ませる。
pm1:30 無事アパートに到着。
赤坂夫婦は顔色が悪い。かなり疲れているようだ。
今回、移植がすぐに実現しなくても最近入院する間隔がせまくなっていて、万が一の事も含め急きょ渡米することが決まったので、昨日までかなり忙しかったはず。
多分睡眠不足と精神的なものと、慣れない旅のせいだと思う。
ただの旅行なら、疲れもそれ程感じないはずだ。
ところが……。
久しぶりに会う我が家の息子は元気を通りこしてhighになっている。
少しの間Aさんも交えてアパートで話す。
pm2:00 丸橋先生の奥様から、今から、ICUから14階の一般病棟へ移る予定という連絡が入る。
(電話が鳴るたびに心臓がドキドキする。)
多分この時点でステータスはBに戻るのだろう。
病院へ徒歩で向かう。
ICUには自由に決まられた時間内なら何度でも面会OKだが、そう言ってもICU。
12歳未満の子は入室禁止(免疫が無い患者が多い為)
入室は2人まで、などの決まりはある。
ひろくんと私は外で待つ事にする。
しばらく経って小百合ちゃんが目を真っ赤にさせて出てきた。
前回の大吐血の時は小百合ちゃんも交替で看護をしていた。まだその記憶が新しい為、思い出したのだろう。
私もいまだに血圧を自動的に計る装置の音が時々空耳で聞こえる事がある。
小百合ちゃんも一緒らしい。
pm3:00 1404号室ヘ移る。
呼吸器ははずれているが、腸の管と尿道管はつけたまま。
鼻には小さ目の呼吸器。
喉をかなり傷つけた様で、喉が喘息のように鳴る。
少し眠りがちなパパだが久しぶりのひろくんを、目で追ってばかりいる。
初めてのICU。久しぶりの昏睡状態。
やっと一般病棟に戻るまでに約4日かかった。
ICUは費用がかなりかかる。
(お金の問題では無い)なんてとても言えない。
そして久しぶりの昏睡。
始めてダラスの救急車で運ばれ、久しぶりに英語でつまずく。
危ない状態で、いつ呼吸が止まるか解らない恐怖。
トップという夢にまで見たリストの順番だが、ドナーが見つからないいら立ちと、いつBに戻るか解らない緊張感。
意識は戻ってほしい。でもいち早く移植も行われる事も望む。
一般病棟に戻った次の日に、ステータスがBに戻ってしまった。
Aになりトップになった次の日に移植が行われそうになった。
今、もしかしたら、ICUで術後の治療が行われていたかもしれないと、すぐに考えてしまう。
パパは、口数が急に減ってしまった。
最低限してほしい事しか言わない。
ひろくんがぐずると、すぐ怒鳴る。
なんて言葉を掛けていいのか解らず、ただ、介護をするだけ。
これから、もっと精神的にきつい時期がくるのだろうか……。
12/26(Sun)
夕べは小百合ちゃん達が泊まりで介護してくれたので、交替で、今度は私とひろくんが病院へ行く。
パパはまだベッドから降りたりするのが困難なので、助けが必要。
病室を長く空ける事ができず、ひろくんが(やはり)あきてきた。
ヘリングさんのクリスマスプレゼントのボードゲームをしながら、パパを見る。
テレビもあるので、見るが、所詮英語。
昼過ぎに丸橋先生の奥様が来てくれ、ひろくんのお相手をしてくれた。
冷蔵庫の中身が少なくなってきたので、丸橋先生と奥様に車でスーパーまで連れていってもらった。
そのまま荷物を置きにアパートに戻り、ひろくんを小百合ちゃん達にあずけ、病院に戻る。
夜九時。交替の時間。
ひろくんを連れた小百合ちゃん達が来るが、ひろくんはまた逆戻り。パパにお休みを言ってから、帰る。
日本と違い、子供を家に一人きりにさせると罰っせられるらしい。
でもひろくんは1日に二回もパトカーに乗れて大満足。パトカーをおりる時、お巡りさんに
「サンキュ~ベリーマッチョ」と言い、若いお巡りさんは笑ってた。(笑)
アパートでは、風船遊び、プロレス…といつものお決まりハード遊び。
明日は筋肉痛かな。
12/27(Mon)
遠くの方で救急車の音と、ぴッぴッという生命維持装置の音がする。ああ。戻らなきゃ。早く戻らないと……….
目が覚め、時計を見るともう8時になってる。
ありゃりゃ。大変。クリッピン先生の回診が終わってしまう~。
慌てて電話を掛け、支度をするが、ひろくんが起きない….。
夕べ遅くまで遊んでしまったから。
結局9時に病室に着き、先生の回診は終わっていた。
小百合ちゃん達にも解りやすい英語で説明してくれたそうだ。
いつも通り丸橋先生に伝えておくと言っていたらしい。
午後、パパのリハビリが始まり、歩く練習と足の運動。
次いで、尿道の管がとれた。
だんだん自由に動けるようになってくる。
コーデイネーターのブレンダさんが来たのでリストの確認をする。
あまり変化はないとのこと。
パパがお昼寝に入ったので、ひろくんと外に散歩に行く。病院の前にちょっとした庭があるのだが、ここの木に大きいリスがいる。
ぜひひろくんに見せたいと思っていた。(前回は見れなかったので)
いたいた!2匹も。
ひろくんは大喜びで(案の定)リスを追い掛け逃げられてしまう。
いつもの事で、
「どうしてひろくんが行くと逃げちゃうのかなあ」
と、いじけている。
ひろくんの愛情はいつもからぶり(?)
夕方ヘリングさんが来て、水曜日にひろくんを動物園に連れていってくれると約束してくれた。
夜、カフェテリアで丸橋先生のお勧めだという(ひろくん曰く)ハンバーガーを買ってから小百合ちゃん達と交替で帰る。
掲示板に目を通し、後少し、パパの状態が良くなってから書き込みをする事にした。
ステータスがBに戻った事を伝えるのが辛い。
皆、心配してくれているのに………….。
でも、ここまで来ているのだ。今はとにかく退院のことだけ考えよう。
なんとか年があけない内に帰れればいいのだけど。
ここまで妻の日記
気管挿管は苦しい
ICUで意識が戻ると、体中に管が巻き付いていた。
尿道に管は入れられてるし、肛門にはチューブまで差し込まれてる。
喉には気管挿管されていた。
人が意識不明だからって、好き放題である。
多分これらの処置は、麻酔なしだろう。意識がないから、、、。
あったら、すごい苦痛だと思う。
意識が戻ってから、どのくらいICUにいたのだろう、1泊くらいだと思うのだが。
とにかく、口と鼻のチューブが苦しかった。
翌日、この管をはずすことになるのだが、その担当のドクターがなかなか来ない。
頭にきたので、4本の管のうち3本を自分で抜いてしまった。
ちょっと引っ張ったら、抜けちゃったのだ。
看護婦に見つかり、英語で何か言われた。(怒られたのだと思う)
結局、この看護婦が最後の1本を抜いてくれた。
このチューブは長かった。肺に酸素をおくっていた管かも知れない。
管の先のほうは、血で真っ赤だった。
しかし、今回の入院ほど「いつのまに」「なにが起きた」と入院時の記憶がないのは始めてだ。
一時は、ステータス2Aになったというのも驚きだし。
「もしかしたら、移植もある」といわれた時の感想は、どちらかといえば、「こまったな」であった。
意識が戻った時点で、かなり体力を消耗していたのか、「やるぞ~!!」という力や気力がまったく沸いてこなかったのだ。
ほんと体力は必要だ。
ここから妻の日記↓
12/29(Wed)
病室と家をいったりきたり。
ひろくんは病室にじっとしていられないので、時々病院の庭へリスを見に行く。
運がよければ、野生のリスが見られるのだ。
12/30(Thu)
朝、クリッピン先生に回診の時、
「夕方4時か5時に帰れるかも。ただ、腎臓の先生と相談してからなので、明日になるかもしれない」
と言われた。
丸橋先生の奥様にスーパーに連れてってもらう。パパに4時までには戻るよと伝えたら、
「皆いなくても退院の許可がでれば一人で帰ってやる~。」などと言ってる。
ほんとに一人でも帰る勢いだったので、慌てて4時に戻った。
ところが、結局夕方5時を過ぎても先生は来ず、パパはかなりがっくりしていた。
明日の朝に期待しよう。
12/31(Fri)
朝から、パパはそわそわしている。
看護婦さんが病室にくるたび、
「今日帰れるのか?クリッピン先生はまだか?」
と聞いてる。
丸橋先生も心配で見に来てくれた。
結局クリッピン先生が来てくれたのはお昼ちょっと前。
パパの笑顔が戻った。
1999年12月31日に退院。
ダラスのダウンタウンでも、カウントダウンがあるらしい。
綺麗との噂なので、アパートの屋上で新年を待つ。
今年は色々なことがあった。
大晦日に退院で一年のしめくくり。
時計の針が12時をまわる。
赤坂夫妻とひろくんと家族揃って新年を迎えた。
パパは寒そうに、毛布にくるまっている。
ダウンタウンから花火があがる。
駐車場には、たくさんの見物者。
皆シャンペンを片手に「ハッピーニューイヤー!!」と抱き合ってる。
まさか、みんなで新年が迎えられるなんて思ってなかった。
小百合ちゃんと二人で、泣いてしまった。
ひろくんはというと、パパの側で花火を見て感激していた。