6月1日(火)
今日は血管造影の検査だ。通称アンギオ。
ふとももには、太い動脈が走っている。そこに細い管を差し込み、そこからスルスルと、そのまま肝臓につき差すのである。そして、その管から血管造影剤を流し込む。
痛そうな検査である、が痛くはない。
まず検査の30分前に精神安定剤の注射を打たれる。そして検査室で腰に麻酔を打たれた。針が肌を突き刺した感覚はない。ただ肝臓に突き刺さる時に鈍痛がある程度だ。
撮影の直前に造影剤を流し込むのだが、胃が妙に熱くなる。
撮影が終わり、動脈の管を抜いて止血だが、これが一番痛かった。
管の刺ささってたふとももを、指で思いっきり押すのである。静脈なら、それほどでもなく止まるだろう。動脈である。しかも太い奴、そいつに針を差したのだ。
普通の人なら5分くらいで止まるそうだが、俺の場合血が止まりづらいので15分もそうやって押されていただろうか。
止血が終わると、その上に鉛の塊のような重しを乗せられテーピングで固定される。稼働式のベッドで部屋に運ばれ、5、6人の看護婦に抱えられベッドに横たえられる。
辛いのここからだ。
俺は両足をまっすぐ伸ばし仰向けに寝ている、両手は自由に動かせるが、この体勢から体を動かしてはいけない。
太い動脈に管を差したのだ。傷口が開くと出血がひどく、大変なことになる。
俺は、右足のふとももの動脈に管を通した。しかし、左足も動かしてはいけない。
「寝返りなんて絶対だめ」と看護婦は言う。
そんなことを言われても困る。寝ているときまで自分を管理はできない。
「ちょっとでも動かしても駄目ですからね」
看護婦に念を押される。
「でも、寝てる時に自然に動いちゃうのはしょうがないですよね」
「じゃあ、萩原さんのために、とっておきの秘密兵器を使いましょう」
(そういうものがあるなら、始めから出してくれ)
ベットの上でしばらく待っていると、看護婦が秘密兵器を持って現われた。
それは、らくだのももひきで出来たような紐であった。
「これで萩原さんの足を、ベットに固定しますから、動かしたくたって動かせ
ませんよ」
すごい秘密兵器があったもんだ。確かに動かせない。厚い生地でできた紐なので、足首も痛くない。
そういえば、検査のために昼食抜きだったので腹が減る。
「どうやって食えばいいんだ!」
と思ったらおにぎりが出てきた。おかずは妻に食べさせてもらう。
夕食後、すかさず睡眠薬を飲み、眠る。
6月2日(水)
朝、担当の医師が見てくれた。
「大丈夫でしょう」と足の紐をほどいてくれる。
普通の人のアンギオの検査なら、今日退院なのだが、俺の場合、血が止まりづらいこともあり、もう一泊。
やることがなにもないので、ずっと寝ていた。
6月3日(木)
退院。アンギオの検査結果のコピーを2部もらう。
来週の頭には東大病院に行く予定だ。
6月4日(金)
7日(月)に東大付属に行く予定だったが、主治医の先生から電話があり、さっそくアンギオの検査結果のコピーを持ってきてくれという。
その時ダラスからの連絡で、3万円持ってきてくれとのこと。
外来で待っていると主治医の先生が現われた。しかも先生来るなり、
「ごめん萩原君。30万ドルの間違いだった」
日本円にして3600万円。そんな大金持っているはずがない。
お金のことは、後程検討することにして、とりあえず、俺の肝臓に関するデータ一式をダラスに送る。
先生は外来担当の日でもないのに、いろいろと心配して、点滴から薬の処方までしてくれる。
感謝の念がたえない。
6月6日(日)
熱が下がる。
気分転換に子供と妻とでかける。
『消防博物館』
世の中、もっと楽しい所はたくさんあるのに、、。
以前、息子が保育園の遠足で行き、かなり気にいったらしい。
入退院と、このところ息子にも心配やら迷惑をかけている。消防車ごときで喜んでくれるならいくらでも連れていくし、付き合ってやる。
「パパ、ジョギングしよう!フルマラソンでもいいよ!」
とでも言おうもんなら、頭ひっぱたいてやるが、、。
博物館くらいなら、そんな疲れないだろうと思っていたが甘かった。博物館て、歩いて見学するんだった。しかも階段も多いし。
結構、疲れた。
6月7日(月)
私用があり新宿へでかける。ついでに紀伊国屋書店をのぞいたりして家へ帰る。
妻が俺の顔を見て驚いている。
「パパ。口がドラキュラになってる」
鏡をのぞくと、歯茎から出血しているではないか。
肝硬変の症状の一つに、出血傾向がある。これは肝臓で作られる血液凝固因子の欠乏によるものだ。
突然、鼻血が流れだすこともある。二日続けて外出したのがいけなかった。
部屋の布団上で絶対安静。
6月8日(火)
午前中にテレビブロスの原稿を書く。
昼すぎコンビニに行く。
夕方、パジャマに着替えようとズボンを脱ぐと、俺のふとももの内側に大事件が起きている。
内ふともも、ほぼ全体が,なんと真っ赤に内出血しているのだ。
昨日の歯茎からの出血もあり、怖くなって河北病院へ行く。外来時間が過ぎているので、緊急外来だ。
緊急外来の医師は、以前、静脈瘤破裂をしたときに見てくれた先生だった。その時のお礼もそうそうに、Gパンを脱ぎ捨てふとももを見てもらう。
「先日、血管造影の検査をしたんですが。くっついた動脈が、また開いて内出血してるんでしょうか。昨日までは、こんな風ではなかったと思うんです」
「検査の時は内出血した?」と医師。
「少ししました。でも、それも止血して大丈夫だって先生は言ってたんですが」
「確かに、大丈夫だよ。その検査の時に内出血した血まめが、どんどん下にさがってるんですよこれは、筋肉の隙間にね」
なるほど。内出血も地球の重力には逆らえない。
「このまま自然に直りますよ」
入院の二文字が脳裏から消え、安心して家に帰る。
6月9日(水)
夜中にトリオジャパンの荒波さんから電話がある。
13日(日)にうちの家族や、親戚代表、やタイタンの代表者を集め、移植に関して主治医の先生に説明会を開いてもらうのだが、荒波さんも来てくれるという。
詳しい時間など、打ち合わせる。
6月12日(土)
河北病院の耳鼻科に行く。
ヒロタカが学校の耳鼻検査で、鼻炎と診断された。治療しないとプールに入れない。
診察の結果、通院して治療をしっかりしたほうがいいとのこと。
「学校帰りに寄れる耳鼻科のほうがいいでしょう」とのアドバイスである。
6月13日(日)
タイタンの社長や母親に妹、叔父、河崎さんなどと東大に行く。
これからのこと、移植についての説明や、細かい打ち合わせのためだ。
生体肝移植にするか、海外での脳死移植か?考えることはない。俺に肝臓の半分を分けてくれる、親族で健康なO型の人はいない。
海外での脳死移植に決定である。
病院はダラス。受け入れOKの正式な書面もダラスから送ってきた。そこには金送れと、口座番号が書いてある。
アメリカの移植リストにのるためには、治療費を前払いしなければならないのだ。
約3600万円。手術前後の費用を含めた金額だ。
もちろん渡米費用や滞在費、などの諸々の経費が別にかかる。手術料の3600万円はうまくいけば、おつりもくるが。手術して肝臓が拒否反応して大変な事態になれば、再手術だ。
その金額は含まれていない。
4000万くらいならと手術にふみきったものの、今じゃ治療費が一億円を超えてしまった、という人もいる。
3600万円は、あくまで手付け金みたいなものだ。手術の性効率は70%くらいだろう。
なんにしろ賭けであることに違いない。勝負に負けるわけにはいかない。
とりあえずは、30万ドルである。
6月14日(月)
さっそく田舎の友人に電話して、迷惑なお願いをする。
中学、高校の卒業名簿でかたっぱしから、寄付のお願いを出すつもりだ。体調が良ければ今週末田舎に帰り、中心になってくれるメンバーに色々と今後のことをお願いにいくつもりだ。
英会話の本を買いにいく(CD付き)。
6月15日(火)
駅前に開業医のやってる耳鼻科を発見。
ここで治療することにする。俺の見舞やら検査のせいで、ヒロタカは最近病院慣れしている。不安な顔一つも見せず、診察室の椅子に座る。
プールの許可をもらう。
6月16日(水)
河北での定期検診。小康状態をたもっている。
ただ、出血傾向があるのでビタミンkの薬を出してもらう。
6月17日(木)
東大病院へ行く。血液検査のあと、点滴を入れてもらう。
アメリカで肝臓移植するにしても、はやく、お金を振り込まないと登録されない。
今、色々と奮闘中なのだが、、、、、。
6月18日(金)
B型肝炎が発見されたのは22才の頃だった。
深い理由もなく、暇つぶしで献血をした。すると赤十字から、後日封筒が郵送されてきた。
そこには『あなたはB型肝炎のウイルスに感染している疑いがあります。もう一度精密検査をおすすめします』そんな文章が、書いてあった。
当時の俺の持っていたB型肝炎の知識といえば、性病で死の病である。
丁度そのころ、B型肝炎に院内感染した看護婦が劇症肝炎で亡くなったというニュースをやっていた。
新宿の飲み屋でバイトしていて、仲の良い常連に看護婦がいたので、そこの病院で精密検査をしてもらうことにした。
結果は陽性。やはりB型肝炎に感染しているとのこと。
「これからは、月に一度は血液検査に来て下さい」といわれた。
感染元を考えても、思いあたるふしはない。ただ一つ、その飲み屋のバイトの先輩がB型肝炎で、ひげそりを借りたことがある。
この先輩はいい加減な奴で、自分はB型肝炎だと知っていながら、平気でひげそりを貸してくれた。
彼がB型肝炎だと知ったのは、さんざん、かみそりを借りた後だった。
感染の心当たりといえばそれくらいで、あの先輩に感染させられたと思い込んでいた。
始めて肝炎で入院した時には、慢性肝炎から肝硬変になっていた。
医師は感染元に関して質問した。
自分では、22才の頃に感染したつもりでいたので、そう言った。
医者は首をかしげていた。
通常、B型肝炎に感染してから肝硬変になるのには、20年から30年はかかるらしい。
「脅威的なスピードで肝硬変になりましたね」
医者は驚きながらも首をかしげていた。
今朝、母が泣きながら電話してきた。
「ごめんね、正人。ごめんね」
どうしたの?となだめて、訳を聞けば、母はB型肝炎のキャリア(ウイルス保菌者)だったらしい。
俺のB型肝炎は、母子感染だったのだ。
母も、もしかしたらと医師に勧められ、血液検査をしたのだという。
母は泣いていた。
俺は全然気にしてないのに、母は自分のせいだと責めている。
慰めの言葉も「気にしてないから」としか言えず、きっと母は一人で苦しむのだろう。
一人の人間が病に倒れる。そのことで、何人の人に迷惑をかけ、その心を傷つけてしまうのだろう。
確かに、いい加減なバイトの先輩にうつされたと思って、腹がたっていたのは事実だ。
しかし、これが母からうつされたなら、腹も立たない。それより母の肝臓が心配だ。詳しい検査結果をみないとなんともいえない。
発病していなければいいのだが。
6月19日(土)
東武伊勢崎線に乗って、足利に着いたのは午後2時だった。
約束通り、妹が待っていた。さっそく、母の血液検査の話しを詳しく聞く。
「抗体ができてた」
「はあ?」
「HBs抗体が出来ていた」
B型肝炎ウイルスの構造の話しになると複雑なので、詳しいことは置いておく。つまり、母は過去にB型肝炎にかかっていたが、今は抗体ができ治癒している。
「あたしも、HBs抗体ができてた」
妹も治癒していた。
母も妹も、B型肝炎ウイルス保持者であった過去から、俺のB型肝炎は母子感染であることは間違いない。
ただ、俺だけは、免疫力もない生後まもなく発病し、慢性肝炎化してしまい、肝硬変まで進行してしまったのだ。
過ぎ去った過去はどうでもいい。今は、海外移植にかけるしかない。今日は、その話しあいの下準備だ。
中学高校の友人は、明日の夕方に実家に集まる。その前に軽く、叩き台になるものを考えておきたい。
友人の石井の携帯に電話すると、仕事も終わったところで、顔をだすと言う。
友人達への募金のお願いをするのに、チラシも必要だ。
石井が家に来たところで、妹夫妻の家に移動する。
マックのG3(パソコン)があり、チラシの文案を考えるに手間が省けるからだ。
妹の旦那さんも、良い人で親身になって心配してくれている。
色々話しあったが、これが最良という方法は見つからない。
とりあえず、チラシの草案だけつくり、明日の友人達との会議に備える。
帰りは、石井が車で実家に送ってくれた。
その途中の出来事である。
「オレ、今、恋してるんだ」
突然、わけのわからない打ち明け話しを、石井が始めた。
「このあいだ、ラブソングをつくって彼女にプレゼントした」
こいつは、30才過ぎて、高校時代と変わらない事をしている。
俺は、死にそうだというのに、、、、、、。
どこの女かと聞けば、いきつけのスナックのオネエチャンらしい。
「よし、そこに行こう!」と俺。
もちろん、酒は飲まないし、つまみすら食えない。
どんな女か興味が湧いたのだ。
「エルザ(仮名)ちゃん、こいつが、正人」
まあ、普通の女の子だ。
しかし、久しぶりに、飲み屋の匂をかいだ。
ちびちびとウーロン茶を飲む。
食事制限も厳しく、おつまみなんて食えない。ついでに水分制限もある。しゃべるしかない。石井は楽しそうに、くつろいでいる。元気な頃は、足利に帰ると石井と飲みに出かけてたっけ。愉快でもなく、かといって退屈でもない時間が過ぎて行った。
夜更かしは、体に良くない。石井は、なごりおしそうだったが、肩を引っぱって帰る。
6月20日(日)
友人達との会合は、夕方からだ。体調が良いので、少し散歩することにした。
小学生の頃に通った通学路をのんびり歩く。昔は田んぼばかりだった。それが今では、住宅が増え、カエルの泣き声も聞こえない。
足利は織物の街として栄えた。どぶ川には染料が流れ込み、時には真っ赤や藍色の水が流れた。水質汚染といわれればそれまでだが、子供心にキレイだなと思った。
しかし、それも今は昔。
一軒だけ、織物屋が残っていた。通学は近所の小学生同士で登校班を組んで通っていた。その集合場所が、織物屋の前だった。
カッタン カッタン カッタン
あの頃と同じリズムで、時は刻まれていた。
帰り道は少し遠回りした。中学から高校まで好きだった彼女の家の、近所を歩いて帰るためだ。
会えるはずもないのに、少しだけドキドキする。
途中、教会に寄り先生に挨拶をして帰る。俺は一応、洗礼を受けているのだ。とはいっても、日曜学校(子供の礼拝)にしかでたことはない。
中学に入って、大人の礼拝にも数回出席したが、堅苦しくてついて行けなかった。
高校まで、子供の礼拝に出ていたのは俺だけだった。
夕方、友人達が集まってくれた。話し合えば、合うほど煮つまってくる。
色々と問題も見えてくる。10万20万の金じゃないのだ。
手術の前金と、渡米してからの滞在費など考えると5000万は必要なのだ。
とりあえず、チラシを作って、俺の事を知ってる友人に配ろう。
とにかく、動き出そう。皆に頭を下げて、お願いした。
夜、高校時代に所属していた劇団の人と、電話で話しをした。この劇団の人は、みな社会人で、いい先輩であり、いつも温かかった。
自分の近況を話すと、その人は絶句してしまった。俺は、その沈黙に耐えられず、不覚にも泣いてしまった。
かくして、『萩原正人を救う会 足利支部』は、友人の協力のもと結成された。
6月21日(月)
昨日とおとといの疲れがどっとでた。
食欲もなく、イライラする。本当ならもう一泊して帰るつもりだったが、今日、東京に戻ることにする。
やはり、わが家が一番おちつくものだ。
妹が仕事帰りに寄ってくれた。車で東京まで送ってくれるという。運転は妹の旦那さんである、赤坂さんだ。実の兄弟のように、俺の体を心配してくれる。
家に着いたらホッとした。妻が夕食の支度をして待っていてくれた。やはり妻の手料理が、一番である。食事制限のことも色々研究してくれて、安心だ。
夜、快眠する。
6月22日(火)
朝6時に目が覚める。
胃がもたれた感じがするので、冷蔵庫のアクエリアスを飲む。胃のムカムカ感は収まる気配はない。
嫌な予感がする。さしたる吐き気もないが、トイレに飛び込み吐く。
水洗トイレの水が、鮮血に染まる。
まただ、、、、、、。
急いで妻を起こす。吐血したことを告げ、救急車を呼んでもらう。
「こんど吐血したら、命の保証はありません」
医者の言葉が脳裏をかすむ。どれくらいの時間がたったろう。数分か十数分か?
遠くから聞こえるサイレンの音。時間の観念が薄れている。
吐血すると、腸に血液がたまり、それが大量のアンモニアを発生させる。それが脳にまわると、いわゆる肝性脳症と呼ばれる症状におちいる。
時間の観念や方向感覚がなくなったり。ひどくなると、興奮状態から昏睡にいたる。
前回は、これの一番最悪の『レベル5』深昏睡に陥った。
救急隊員が河北病院に電話している。2万の個室ならあいてるそうである。
東大付属病院にも電話してもらう。主治医の先生が病院にいて、治療してくれるらしい。
阿佐ヶ谷から、お茶の水。それまでに大量の吐血をしなければいいのだが。
東大病院に向かうことにした。
自分では、意識はしっかりしているつもりでも、はたから見るとボーットしているらしい。妻も息子も、黙ったまま俺の顔を、心配そうに見つめている。
東大病院で、まず採血。処置室のベットに横たわっていた。主治医の先生は、内視鏡の先生を探しにいっている。館内放送までして探したが見つからない。
戻ってきた主治医の先生が弱った顔でいう、
「こういうとき、大学病院は弱いんだよ、機動力がなくて」
主治医の先生が自ら内視鏡で、処置してくれないのか?疑問も湧いたが、病院には病院のシステムがあるのだろう。
血液検査の結果があがってきた。
「アンモニアが高いし入院したほうがいいな。ただ、うちも満パイなんだ」
主治医の先生が続ける。
「2万の部屋でもしょうがないよ。すぐ大部屋も開くだろうから、河北に行ったほうがいいよ」
患者は良くも悪くも、医者のいいなりである。主治医の先生が呼んでくれた救急車に乗り、阿佐ヶ谷へとんぼ帰りである。
静脈瘤破裂の処置にはいろいろある。俺がするのはEVLと呼ばれるものだ。すごく簡単に言うと、内視鏡を使い、破裂した箇所をゴムで縛るのだ。
処置は午後に行われる事になった。入院に際しては、5階の本館の大部屋が開いていたので、そこに入れてもらえた。
2万の部屋しかなかったんじゃないのか!!
今回で河北に4回ほど、入院しているのだが、その度に担当医が違う。
河北には東館と本館がある。本館は5階建て、東館は4階建て、各館の各階で、所属している医師が違うのだ。
いつも緊急入院する俺は、開いてる病室に入れられる。そのために、担当医も変わることになるのだ。
前回の静脈瘤破裂では東4階に入院した。その時の担当医がT先生だった。
その後の検査入院も、東館4階に入院になった。これは予約していたからだろう。T先生は肝臓の専門である。外来も、それからT先生にお願いしている。
今回の入院中の担当医はK先生という方で、良い人なのだが、肝臓は専門ではない。
T先生と相談しながら治療にあたってくれている。
5階に入院したばかりの時の話しだ、
「T先生のいる東館4階の病室が開いたら入れて下さい」とお願いした。
「うちの病院では、それができないんだよ」
断わられてしまった。
今まで河北で、5人の医師に見て貰った。
「あと、どれくらい生きれますか?」
この問いに、みな口ごもりながら、
「1年かもしれないし、個人差もあるし、10年生きた例もあるし、、」
要するに、いつ死んでもおかしくない病状なわけだ。
前回の静脈瘤破裂で退院してから、しばらくは情緒不安定で頭がおかしくなりそうだった。
不眠症で眠れず。生きているのさえ辛く思えた。
今は、眠剤の力で眠る毎日だ。
ただ、肝臓移植をする事に決めた日から、
「絶対に生きてやる!」と前向きな目的がうまれた。
友人達の応援も励みになった。ただ、死を待つのは寂しすぎる。けっこう精神的にも安定してきたところだった。
そこへ、又もや静脈瘤破裂である。
体調はいいと思っていただけに、気分が滅入る。静脈瘤破裂は、体調や肝機能とは別ものだ。破裂するかしないかは、運の要素もある。
やっぱり、海外移植まで体がもたないかも知れない。急に弱きになり、子供の前で涙をこぼしそうになる。
病院に入ってしまえば、精神的な支柱になるのは医師である。全てをまかせているのだ。
「萩原さん、一緒に頑張ろう!」
その一言だけでも心強いものだ。
それが、そうころころ担当を変えられても、、、、。心のケアが大切なんて事を、良く耳にするが現実は、、、。
お世話になった先生が、最良の治療をしてくれて、それでも命尽きる。
それなら納得いく。
しかし、しょせん病院もシステムに縛られた世界なのかも知れない。
それでも、俺は恵まれてる方かもしれない。今回は担当ではないのに、色々心配して、T先生が回診に来てくれる。
「今後、どの階の病棟に入院しても、見にくるよ」
そう言ってくれた。
内視鏡での治療をしてくれたのも、T先生だった。
2週間くらいしたら、もう一度、内視鏡をのぞいて、問題なければ退院の予定だ。
今回は、前回ほどひどい出血もなく、意識がなくなる事もなかった。肝機能の数字も、ほとんど変わりないという。黄だんの数字も、横ばい状態だそうだ。
考えると恐ろしい。あのまま、足利にもう一泊していたら。
父は先日、手術をしたばかりで元気はない。母はただ、うろたえるばかりだろう。
例え救急車に乗り病院に運ばれても、俺の詳しい症状は足利の病院ではわからないだろうし。それで、入院となれば色々と不都合も生じる。やはり前日に東京に帰ってきたのは正解だった。