1999年6月 萩原正人を救う会結成〜再吐血

注意
これは1999年の日記のため、情報が古いです。また、医療情報についても素人患者の闘病記です。ご自身の健康に関しては、医療機関に相談してください。

6月1日(火)

今日は血管造影の検査だ。通称アンギオ。

ふとももには、太い動脈が走っている。そこに細い管を差し込み、そこからスルスルと、そのまま肝臓につき差すのである。そして、その管から血管造影剤を流し込む。

痛そうな検査である、が痛くはない。

まず検査の30分前に精神安定剤の注射を打たれる。そして検査室で腰に麻酔を打たれた。針が肌を突き刺した感覚はない。ただ肝臓に突き刺さる時に鈍痛がある程度だ。

撮影の直前に造影剤を流し込むのだが、胃が妙に熱くなる。

撮影が終わり、動脈の管を抜いて止血だが、これが一番痛かった。

管の刺ささってたふとももを、指で思いっきり押すのである。静脈なら、それほどでもなく止まるだろう。動脈である。しかも太い奴、そいつに針を差したのだ。

普通の人なら5分くらいで止まるそうだが、俺の場合血が止まりづらいので15分もそうやって押されていただろうか。

止血が終わると、その上に鉛の塊のような重しを乗せられテーピングで固定される。稼働式のベッドで部屋に運ばれ、5、6人の看護婦に抱えられベッドに横たえられる。

辛いのここからだ。

俺は両足をまっすぐ伸ばし仰向けに寝ている、両手は自由に動かせるが、この体勢から体を動かしてはいけない。

太い動脈に管を差したのだ。傷口が開くと出血がひどく、大変なことになる。

俺は、右足のふとももの動脈に管を通した。しかし、左足も動かしてはいけない。

「寝返りなんて絶対だめ」と看護婦は言う。

そんなことを言われても困る。寝ているときまで自分を管理はできない。

「ちょっとでも動かしても駄目ですからね」

看護婦に念を押される。

「でも、寝てる時に自然に動いちゃうのはしょうがないですよね」

「じゃあ、萩原さんのために、とっておきの秘密兵器を使いましょう」

(そういうものがあるなら、始めから出してくれ)

ベットの上でしばらく待っていると、看護婦が秘密兵器を持って現われた。

それは、らくだのももひきで出来たような紐であった。

「これで萩原さんの足を、ベットに固定しますから、動かしたくたって動かせ

ませんよ」

すごい秘密兵器があったもんだ。確かに動かせない。厚い生地でできた紐なので、足首も痛くない。

そういえば、検査のために昼食抜きだったので腹が減る。

「どうやって食えばいいんだ!」

と思ったらおにぎりが出てきた。おかずは妻に食べさせてもらう。

夕食後、すかさず睡眠薬を飲み、眠る。


6月2日(水)

朝、担当の医師が見てくれた。

「大丈夫でしょう」と足の紐をほどいてくれる。

普通の人のアンギオの検査なら、今日退院なのだが、俺の場合、血が止まりづらいこともあり、もう一泊。

やることがなにもないので、ずっと寝ていた。


6月3日(木)

退院。アンギオの検査結果のコピーを2部もらう。

来週の頭には東大病院に行く予定だ。


6月4日(金)

7日(月)に東大付属に行く予定だったが、主治医の先生から電話があり、さっそくアンギオの検査結果のコピーを持ってきてくれという。

その時ダラスからの連絡で、3万円持ってきてくれとのこと。

外来で待っていると主治医の先生が現われた。しかも先生来るなり、

「ごめん萩原君。30万ドルの間違いだった」

日本円にして3600万円。そんな大金持っているはずがない。

お金のことは、後程検討することにして、とりあえず、俺の肝臓に関するデータ一式をダラスに送る。

先生は外来担当の日でもないのに、いろいろと心配して、点滴から薬の処方までしてくれる。

感謝の念がたえない。


6月6日(日)

熱が下がる。

気分転換に子供と妻とでかける。

『消防博物館』

世の中、もっと楽しい所はたくさんあるのに、、。

以前、息子が保育園の遠足で行き、かなり気にいったらしい。

入退院と、このところ息子にも心配やら迷惑をかけている。消防車ごときで喜んでくれるならいくらでも連れていくし、付き合ってやる。

「パパ、ジョギングしよう!フルマラソンでもいいよ!」

とでも言おうもんなら、頭ひっぱたいてやるが、、。

博物館くらいなら、そんな疲れないだろうと思っていたが甘かった。博物館て、歩いて見学するんだった。しかも階段も多いし。

結構、疲れた。


6月7日(月)

私用があり新宿へでかける。ついでに紀伊国屋書店をのぞいたりして家へ帰る。

妻が俺の顔を見て驚いている。

「パパ。口がドラキュラになってる」

鏡をのぞくと、歯茎から出血しているではないか。

肝硬変の症状の一つに、出血傾向がある。これは肝臓で作られる血液凝固因子の欠乏によるものだ。

突然、鼻血が流れだすこともある。二日続けて外出したのがいけなかった。

部屋の布団上で絶対安静。


6月8日(火)

午前中にテレビブロスの原稿を書く。

昼すぎコンビニに行く。

夕方、パジャマに着替えようとズボンを脱ぐと、俺のふとももの内側に大事件が起きている。

内ふともも、ほぼ全体が,なんと真っ赤に内出血しているのだ。

昨日の歯茎からの出血もあり、怖くなって河北病院へ行く。外来時間が過ぎているので、緊急外来だ。

緊急外来の医師は、以前、静脈瘤破裂をしたときに見てくれた先生だった。その時のお礼もそうそうに、Gパンを脱ぎ捨てふとももを見てもらう。

「先日、血管造影の検査をしたんですが。くっついた動脈が、また開いて内出血してるんでしょうか。昨日までは、こんな風ではなかったと思うんです」

「検査の時は内出血した?」と医師。

「少ししました。でも、それも止血して大丈夫だって先生は言ってたんですが」

「確かに、大丈夫だよ。その検査の時に内出血した血まめが、どんどん下にさがってるんですよこれは、筋肉の隙間にね」

なるほど。内出血も地球の重力には逆らえない。

「このまま自然に直りますよ」

入院の二文字が脳裏から消え、安心して家に帰る。


6月9日(水)

夜中にトリオジャパンの荒波さんから電話がある。

13日(日)にうちの家族や、親戚代表、やタイタンの代表者を集め、移植に関して主治医の先生に説明会を開いてもらうのだが、荒波さんも来てくれるという。

詳しい時間など、打ち合わせる。


6月12日(土)

河北病院の耳鼻科に行く。

ヒロタカが学校の耳鼻検査で、鼻炎と診断された。治療しないとプールに入れない。

診察の結果、通院して治療をしっかりしたほうがいいとのこと。

「学校帰りに寄れる耳鼻科のほうがいいでしょう」とのアドバイスである。


6月13日(日)

タイタンの社長や母親に妹、叔父、河崎さんなどと東大に行く。

これからのこと、移植についての説明や、細かい打ち合わせのためだ。

生体肝移植にするか、海外での脳死移植か?考えることはない。俺に肝臓の半分を分けてくれる、親族で健康なO型の人はいない。

海外での脳死移植に決定である。

病院はダラス。受け入れOKの正式な書面もダラスから送ってきた。そこには金送れと、口座番号が書いてある。

アメリカの移植リストにのるためには、治療費を前払いしなければならないのだ。

約3600万円。手術前後の費用を含めた金額だ。

もちろん渡米費用や滞在費、などの諸々の経費が別にかかる。手術料の3600万円はうまくいけば、おつりもくるが。手術して肝臓が拒否反応して大変な事態になれば、再手術だ。

その金額は含まれていない。

4000万くらいならと手術にふみきったものの、今じゃ治療費が一億円を超えてしまった、という人もいる。

3600万円は、あくまで手付け金みたいなものだ。手術の性効率は70%くらいだろう。

なんにしろ賭けであることに違いない。勝負に負けるわけにはいかない。

とりあえずは、30万ドルである。


6月14日(月)

さっそく田舎の友人に電話して、迷惑なお願いをする。

中学、高校の卒業名簿でかたっぱしから、寄付のお願いを出すつもりだ。体調が良ければ今週末田舎に帰り、中心になってくれるメンバーに色々と今後のことをお願いにいくつもりだ。

英会話の本を買いにいく(CD付き)。


6月15日(火)

駅前に開業医のやってる耳鼻科を発見。

ここで治療することにする。俺の見舞やら検査のせいで、ヒロタカは最近病院慣れしている。不安な顔一つも見せず、診察室の椅子に座る。

プールの許可をもらう。


6月16日(水)

河北での定期検診。小康状態をたもっている。

ただ、出血傾向があるのでビタミンkの薬を出してもらう。


6月17日(木)

東大病院へ行く。血液検査のあと、点滴を入れてもらう。

アメリカで肝臓移植するにしても、はやく、お金を振り込まないと登録されない。

今、色々と奮闘中なのだが、、、、、。


6月18日(金)

B型肝炎が発見されたのは22才の頃だった。

深い理由もなく、暇つぶしで献血をした。すると赤十字から、後日封筒が郵送されてきた。

そこには『あなたはB型肝炎のウイルスに感染している疑いがあります。もう一度精密検査をおすすめします』そんな文章が、書いてあった。

当時の俺の持っていたB型肝炎の知識といえば、性病で死の病である。

丁度そのころ、B型肝炎に院内感染した看護婦が劇症肝炎で亡くなったというニュースをやっていた。

新宿の飲み屋でバイトしていて、仲の良い常連に看護婦がいたので、そこの病院で精密検査をしてもらうことにした。

結果は陽性。やはりB型肝炎に感染しているとのこと。

「これからは、月に一度は血液検査に来て下さい」といわれた。

感染元を考えても、思いあたるふしはない。ただ一つ、その飲み屋のバイトの先輩がB型肝炎で、ひげそりを借りたことがある。

この先輩はいい加減な奴で、自分はB型肝炎だと知っていながら、平気でひげそりを貸してくれた。

彼がB型肝炎だと知ったのは、さんざん、かみそりを借りた後だった。

感染の心当たりといえばそれくらいで、あの先輩に感染させられたと思い込んでいた。

始めて肝炎で入院した時には、慢性肝炎から肝硬変になっていた。

医師は感染元に関して質問した。

自分では、22才の頃に感染したつもりでいたので、そう言った。

医者は首をかしげていた。

通常、B型肝炎に感染してから肝硬変になるのには、20年から30年はかかるらしい。

「脅威的なスピードで肝硬変になりましたね」

医者は驚きながらも首をかしげていた。

 

今朝、母が泣きながら電話してきた。

「ごめんね、正人。ごめんね」

どうしたの?となだめて、訳を聞けば、母はB型肝炎のキャリア(ウイルス保菌者)だったらしい。

俺のB型肝炎は、母子感染だったのだ。

母も、もしかしたらと医師に勧められ、血液検査をしたのだという。

母は泣いていた。

俺は全然気にしてないのに、母は自分のせいだと責めている。

慰めの言葉も「気にしてないから」としか言えず、きっと母は一人で苦しむのだろう。

一人の人間が病に倒れる。そのことで、何人の人に迷惑をかけ、その心を傷つけてしまうのだろう。

確かに、いい加減なバイトの先輩にうつされたと思って、腹がたっていたのは事実だ。

しかし、これが母からうつされたなら、腹も立たない。それより母の肝臓が心配だ。詳しい検査結果をみないとなんともいえない。

発病していなければいいのだが。


6月19日(土)

東武伊勢崎線に乗って、足利に着いたのは午後2時だった。

約束通り、妹が待っていた。さっそく、母の血液検査の話しを詳しく聞く。

「抗体ができてた」

「はあ?」

「HBs抗体が出来ていた」

B型肝炎ウイルスの構造の話しになると複雑なので、詳しいことは置いておく。つまり、母は過去にB型肝炎にかかっていたが、今は抗体ができ治癒している。

「あたしも、HBs抗体ができてた」

妹も治癒していた。

母も妹も、B型肝炎ウイルス保持者であった過去から、俺のB型肝炎は母子感染であることは間違いない。

ただ、俺だけは、免疫力もない生後まもなく発病し、慢性肝炎化してしまい、肝硬変まで進行してしまったのだ。

過ぎ去った過去はどうでもいい。今は、海外移植にかけるしかない。今日は、その話しあいの下準備だ。

中学高校の友人は、明日の夕方に実家に集まる。その前に軽く、叩き台になるものを考えておきたい。

友人の石井の携帯に電話すると、仕事も終わったところで、顔をだすと言う。

友人達への募金のお願いをするのに、チラシも必要だ。

石井が家に来たところで、妹夫妻の家に移動する。

マックのG3(パソコン)があり、チラシの文案を考えるに手間が省けるからだ。

妹の旦那さんも、良い人で親身になって心配してくれている。

色々話しあったが、これが最良という方法は見つからない。

とりあえず、チラシの草案だけつくり、明日の友人達との会議に備える。

帰りは、石井が車で実家に送ってくれた。

その途中の出来事である。

「オレ、今、恋してるんだ」

突然、わけのわからない打ち明け話しを、石井が始めた。

「このあいだ、ラブソングをつくって彼女にプレゼントした」

こいつは、30才過ぎて、高校時代と変わらない事をしている。

俺は、死にそうだというのに、、、、、、。

どこの女かと聞けば、いきつけのスナックのオネエチャンらしい。

「よし、そこに行こう!」と俺。

もちろん、酒は飲まないし、つまみすら食えない。

どんな女か興味が湧いたのだ。

「エルザ(仮名)ちゃん、こいつが、正人」

まあ、普通の女の子だ。

しかし、久しぶりに、飲み屋の匂をかいだ。

ちびちびとウーロン茶を飲む。

食事制限も厳しく、おつまみなんて食えない。ついでに水分制限もある。しゃべるしかない。石井は楽しそうに、くつろいでいる。元気な頃は、足利に帰ると石井と飲みに出かけてたっけ。愉快でもなく、かといって退屈でもない時間が過ぎて行った。

夜更かしは、体に良くない。石井は、なごりおしそうだったが、肩を引っぱって帰る。


6月20日(日)

友人達との会合は、夕方からだ。体調が良いので、少し散歩することにした。

小学生の頃に通った通学路をのんびり歩く。昔は田んぼばかりだった。それが今では、住宅が増え、カエルの泣き声も聞こえない。

足利は織物の街として栄えた。どぶ川には染料が流れ込み、時には真っ赤や藍色の水が流れた。水質汚染といわれればそれまでだが、子供心にキレイだなと思った。

しかし、それも今は昔。

一軒だけ、織物屋が残っていた。通学は近所の小学生同士で登校班を組んで通っていた。その集合場所が、織物屋の前だった。

カッタン カッタン カッタン

あの頃と同じリズムで、時は刻まれていた。

帰り道は少し遠回りした。中学から高校まで好きだった彼女の家の、近所を歩いて帰るためだ。

会えるはずもないのに、少しだけドキドキする。

途中、教会に寄り先生に挨拶をして帰る。俺は一応、洗礼を受けているのだ。とはいっても、日曜学校(子供の礼拝)にしかでたことはない。

中学に入って、大人の礼拝にも数回出席したが、堅苦しくてついて行けなかった。

高校まで、子供の礼拝に出ていたのは俺だけだった。

夕方、友人達が集まってくれた。話し合えば、合うほど煮つまってくる。

色々と問題も見えてくる。10万20万の金じゃないのだ。

手術の前金と、渡米してからの滞在費など考えると5000万は必要なのだ。

とりあえず、チラシを作って、俺の事を知ってる友人に配ろう。

とにかく、動き出そう。皆に頭を下げて、お願いした。

夜、高校時代に所属していた劇団の人と、電話で話しをした。この劇団の人は、みな社会人で、いい先輩であり、いつも温かかった。

自分の近況を話すと、その人は絶句してしまった。俺は、その沈黙に耐えられず、不覚にも泣いてしまった。

かくして、『萩原正人を救う会 足利支部』は、友人の協力のもと結成された。


6月21日(月)

昨日とおとといの疲れがどっとでた。

食欲もなく、イライラする。本当ならもう一泊して帰るつもりだったが、今日、東京に戻ることにする。

やはり、わが家が一番おちつくものだ。

妹が仕事帰りに寄ってくれた。車で東京まで送ってくれるという。運転は妹の旦那さんである、赤坂さんだ。実の兄弟のように、俺の体を心配してくれる。

家に着いたらホッとした。妻が夕食の支度をして待っていてくれた。やはり妻の手料理が、一番である。食事制限のことも色々研究してくれて、安心だ。

夜、快眠する。


6月22日(火)

朝6時に目が覚める。

胃がもたれた感じがするので、冷蔵庫のアクエリアスを飲む。胃のムカムカ感は収まる気配はない。

嫌な予感がする。さしたる吐き気もないが、トイレに飛び込み吐く。

水洗トイレの水が、鮮血に染まる。

まただ、、、、、、。

急いで妻を起こす。吐血したことを告げ、救急車を呼んでもらう。

「こんど吐血したら、命の保証はありません」

医者の言葉が脳裏をかすむ。どれくらいの時間がたったろう。数分か十数分か?

遠くから聞こえるサイレンの音。時間の観念が薄れている。

吐血すると、腸に血液がたまり、それが大量のアンモニアを発生させる。それが脳にまわると、いわゆる肝性脳症と呼ばれる症状におちいる。

時間の観念や方向感覚がなくなったり。ひどくなると、興奮状態から昏睡にいたる。

前回は、これの一番最悪の『レベル5』深昏睡に陥った。

救急隊員が河北病院に電話している。2万の個室ならあいてるそうである。

東大付属病院にも電話してもらう。主治医の先生が病院にいて、治療してくれるらしい。

阿佐ヶ谷から、お茶の水。それまでに大量の吐血をしなければいいのだが。

東大病院に向かうことにした。

自分では、意識はしっかりしているつもりでも、はたから見るとボーットしているらしい。妻も息子も、黙ったまま俺の顔を、心配そうに見つめている。

東大病院で、まず採血。処置室のベットに横たわっていた。主治医の先生は、内視鏡の先生を探しにいっている。館内放送までして探したが見つからない。

戻ってきた主治医の先生が弱った顔でいう、

「こういうとき、大学病院は弱いんだよ、機動力がなくて」

主治医の先生が自ら内視鏡で、処置してくれないのか?疑問も湧いたが、病院には病院のシステムがあるのだろう。

血液検査の結果があがってきた。

「アンモニアが高いし入院したほうがいいな。ただ、うちも満パイなんだ」

主治医の先生が続ける。

「2万の部屋でもしょうがないよ。すぐ大部屋も開くだろうから、河北に行ったほうがいいよ」

患者は良くも悪くも、医者のいいなりである。主治医の先生が呼んでくれた救急車に乗り、阿佐ヶ谷へとんぼ帰りである。

静脈瘤破裂の処置にはいろいろある。俺がするのはEVLと呼ばれるものだ。すごく簡単に言うと、内視鏡を使い、破裂した箇所をゴムで縛るのだ。

処置は午後に行われる事になった。入院に際しては、5階の本館の大部屋が開いていたので、そこに入れてもらえた。

2万の部屋しかなかったんじゃないのか!!

今回で河北に4回ほど、入院しているのだが、その度に担当医が違う。

河北には東館と本館がある。本館は5階建て、東館は4階建て、各館の各階で、所属している医師が違うのだ。

いつも緊急入院する俺は、開いてる病室に入れられる。そのために、担当医も変わることになるのだ。

前回の静脈瘤破裂では東4階に入院した。その時の担当医がT先生だった。

その後の検査入院も、東館4階に入院になった。これは予約していたからだろう。T先生は肝臓の専門である。外来も、それからT先生にお願いしている。

今回の入院中の担当医はK先生という方で、良い人なのだが、肝臓は専門ではない。

T先生と相談しながら治療にあたってくれている。

5階に入院したばかりの時の話しだ、

「T先生のいる東館4階の病室が開いたら入れて下さい」とお願いした。

「うちの病院では、それができないんだよ」

断わられてしまった。

今まで河北で、5人の医師に見て貰った。

「あと、どれくらい生きれますか?」

この問いに、みな口ごもりながら、

「1年かもしれないし、個人差もあるし、10年生きた例もあるし、、」

要するに、いつ死んでもおかしくない病状なわけだ。

前回の静脈瘤破裂で退院してから、しばらくは情緒不安定で頭がおかしくなりそうだった。

不眠症で眠れず。生きているのさえ辛く思えた。

今は、眠剤の力で眠る毎日だ。

ただ、肝臓移植をする事に決めた日から、

「絶対に生きてやる!」と前向きな目的がうまれた。

友人達の応援も励みになった。ただ、死を待つのは寂しすぎる。けっこう精神的にも安定してきたところだった。

そこへ、又もや静脈瘤破裂である。

体調はいいと思っていただけに、気分が滅入る。静脈瘤破裂は、体調や肝機能とは別ものだ。破裂するかしないかは、運の要素もある。

やっぱり、海外移植まで体がもたないかも知れない。急に弱きになり、子供の前で涙をこぼしそうになる。

病院に入ってしまえば、精神的な支柱になるのは医師である。全てをまかせているのだ。

「萩原さん、一緒に頑張ろう!」

その一言だけでも心強いものだ。

それが、そうころころ担当を変えられても、、、、。心のケアが大切なんて事を、良く耳にするが現実は、、、。

お世話になった先生が、最良の治療をしてくれて、それでも命尽きる。

それなら納得いく。

しかし、しょせん病院もシステムに縛られた世界なのかも知れない。

それでも、俺は恵まれてる方かもしれない。今回は担当ではないのに、色々心配して、T先生が回診に来てくれる。

「今後、どの階の病棟に入院しても、見にくるよ」

そう言ってくれた。

内視鏡での治療をしてくれたのも、T先生だった。

2週間くらいしたら、もう一度、内視鏡をのぞいて、問題なければ退院の予定だ。

今回は、前回ほどひどい出血もなく、意識がなくなる事もなかった。肝機能の数字も、ほとんど変わりないという。黄だんの数字も、横ばい状態だそうだ。

考えると恐ろしい。あのまま、足利にもう一泊していたら。

父は先日、手術をしたばかりで元気はない。母はただ、うろたえるばかりだろう。

例え救急車に乗り病院に運ばれても、俺の詳しい症状は足利の病院ではわからないだろうし。それで、入院となれば色々と不都合も生じる。やはり前日に東京に帰ってきたのは正解だった。